Dance Fanfare Kyoto

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インタビュー松尾恵美作品 ねほりはほり (Dance Fanfare Kyoto vol.02)

松尾恵美作品 [つくる前]

【高嶋慈→松尾恵美 インタビュー (1回目) 2014年 4月2日(水)京都 出町柳周辺】
最初のインタビューは、ダンサーとのリハーサルが始まる前に実施されました。松尾さんが持ってきていた創作メモを高嶋さんが読むところからスタート。今回の作品の話だけではなく、過去の作品の話も混ざりながら、松尾さんがどのように作品づくりに臨もうとしているかが少しずつあらわになってきました。

初めて作った作品からずっとつながっているもの

高 嶋:
タイトルは「形創る」と書いて「こわれる」と読むんですね。どういったところからつけたんですか?
松 尾:
そうです。まず「ゲシュタルト崩壊」がアイデアとしてありました。といっても、突拍子のないひらめきから探っている状態です。ただ、以前からダンスにしてみたいと思っていたキーワードでもあって、しかも一度引っかかったらなかなか離れないたちで…。タイトルにそのまま「ゲシュタルト崩壊」を使うのはくすぐったい感じがあったので、自分なりにインターネットなどを使って材料を集め考えていった中で、形から外れていく、というようなイメージが生まれ、このタイトルに辿りつきました。
高 嶋:
お会いする前に松尾さんの過去の作品の映像を見せていただいたんですが、『羅列する』(2011年)と今おっしゃった「ゲシュタルト崩壊」というキーワードは、関心として繋がっている気がします。
松 尾:
『羅列する』は、初めて作った作品でした。それまでは自分が創作をするというイメージはほとんど持ったことがなかったのですが、機会をいただいて。自分にどんなものが作れるかを考えた時に、たとえば人間の感情や記憶、生き様といった部分ではなく、身体を物質としてとらえて、その状態や質感が変わっていくようなものに興味を持っている、と思ったんです。自分が発信をする時は、そういう考え方をする方がイメージが膨らむというか…。
高 嶋:
『羅列する』が初めての作品と聞いて、びっくりしました。初めて作品に取り組む時は、思い付きや見切り発車で始めて、消化しきれないまま詰め込んでしまうということがよくあると思うんですけど、そうではなく、かなりコンセプチュアルに作っていらっしゃる方だという印象がありました。タイトルもすごくシンプルで、作品の構造にもなっている。おっしゃっていたように、感情や記憶といった個人的なものから身体を突き放していて、お客さんにも何かを訴えかけるというよりは距離を置き、単純な動きの反復によって構成されている。ミニマリズムに近いのかなと思いながら見ていました。
松 尾:
たとえば、「つらい」と思っていることを軸に作ったとしても、「つらい」っていう振りを踊るというよりは、感情を切り離して、余白でそれを感じてほしい、と考えているかもしれません。まだ作品はふたつしか作っていませんが、自然とそういう作り方になっているような気がします。
高 嶋:
イヴォンヌ・レイナーなど、ミニマリズムのダンスに興味をお持ちなのかと思ったのですが。
松 尾:
特定のジャンルというよりは、ダンスについてはなんでも関心を持っています。たとえばダンサーとして出演する時に「つらい」「かなしい」ことを全身に出してやれと言われればそれをやりたいと思いますし、どんな要求が来ても拒否反応なく、おもしろがれます。観客としても、ミニマムに動く人よりはコテコテの人が好きだったり…興味と作品づくりは、ストレートにつながっていないのかもしれません。雑食なんですね、きっと。
高 嶋:
でも、作品づくりに関しては一貫した関心があるんだと思いました。『羅列する』は松尾さん自身のソロ作品でしたが、二つ目に作った『Fit back?』(2013)は出演者2名に振付をしたんですね。
松 尾:
最初は自分も出演するトリオ作品の予定だったのですが、稽古で見る側の立場にいると、自分が入っている姿を想像できなくなって、むしろ自分が出演しない方がおもしろいものが出来るだろう、ということで、途中からデュオ作品に切り替わりました。振付をしたというか…ムーブメントがガチガチに決まっていたという作品ではなく、ダンサーが即興的に間合いを取りながらパフォーマンスしていて、毎回違うことが起こるのを私が楽しんでいた、というような作品でしたね。私は構成を決めて、形は渡すけれど、その色付けはダンサーに任せる。ダンサーがつけた色について、リクエストをする、という感じでした。
高 嶋:
動きについては自由度が高かったということですが、作品全体の構成はきっちりとしていて幾何学的だと思いました。
松 尾:
彼らが舞台上にいる時間も決まっていて、2分、3分、1分…と、すべてキッチンタイマーでカウントしています。あるルールを設定した運動を反復していく中で、身体が厳密な繰り返しが出来ずにはみ出していく身体を見てみたくて、それを叶えるための構成はしっかり決めるようにしました。照明や音響などはかなり削ぎ落としたプランになっています。
高 嶋:
ルールとか構造がきちっとある中で、生身の身体がどうリアリティをさらけ出すか、それを見たいということでしょうか。
松 尾:
そうかもしれません。ただ、『Fit back?』は少し根性論のようなものが入ってきていたので、今回の作品ではそこに逃げず、仕組み作りに力を入れたいですね。ダンサー自身もお客さんも、冷静な状態で、でもはっとできるような、そういうものを見せられたらと。

帰ってくる場所としてのキーワード

松 尾:
あと私、あまりよくないことかもしれませんが、ダンスや演劇を見ていると、台詞を噛んでしまったり、ターンがうまくいかなかったりするような状態がおもしろいんです。ちょっとつまづいてしまった時の揺らぎが印象に残ってしまうというか…ひねくれてますね。(笑) ただ、演じている側もお客さんも両方意図していないものが生まれてしまった瞬間のおもしろさってあると思っていて、そういった部分も今回の作品の材料に含まれている気がします。
観客として観る時やダンサーとして出演する時と、自分が作品を作る時とで見方が変わるのですが、おもしろいムーブメントを発見して組み立てて作品を作る、という方法に、作り手としてはあまり興味を持てません。即興でやってみておもしろい形が見つかったからそれを使うっていうことはダンスでよくあることでもありますが、だったら稽古は必要なのかとか、振りを決めずに身体のきくダンサーに即興で20分踊ってもらえばできるんじゃないかって思ってしまいます。
だから、自分で作品を作る時には、帰ってくる場所、照らし合わせるものとして、なにかひとつキーワードを置いておこうとしますね。なんでもよくなってしまうというのは、不安というか。何を対象として見ていたのかということがなければ、最終的に作品を提示した時にも、何も返ってこないんじゃないかと思って。
高 嶋:

作品づくりは、コンセプトや創作ノートを書きだすところから始めますか?

松 尾:
そうですね。今の時点でなにがやりたくて問題はどこにあるかということを、一回一回考える時間を確保するようにしています。これは必要がないから今は置いておこうとか、要素の取捨選択も含めて。稽古がスタートして本番が近付いてくると、閉じこもっていくというか、思い込みがひどくなってしまうので、冷静なうちにできるだけ冷静になっておきます。
高 嶋:
「こわれる」っていう言葉はおもしろいなと思っています。一つの単純な身振りでも、繰り返すことによって身体も疲れてくるし、見ている方の意識も変わってきますよね。別の動作に見えてきたり、陶酔的になってきたり、リズムを感じ始めたり…
松 尾:
今回、動きを反復するかどうかは分かりませんが、見ている対象がどんどん変化していくという状態は、狙っていきたいところです。むしろ、反復や身体への負荷、あるいは言葉での説明といった方法以外でそういったところに持っていけるのか、試してみたいですね。実際には稽古してみないと、なにができてなにができないのかはわからないんですけど。かなり今回もシンプルになる予感はあります。関係性とかも今はほとんど興味がなくて。
高 嶋:
関係性と言うのは?
松 尾:
たとえば、ふたりが舞台上に立っていたら、動いていなくてもすでになにか関係性が生まれているんだと思うんです。見ている側も、なにか関係を探ってしまう。でも、それも排除したい。なので、ソロとソロを組み合わせたような作品を今はイメージしています。
高 嶋:
ふたりである必要性はない、ということですよね。ただ、ふたりいると、バリエーションの膨らみは出てくると思います。ひとりが見せられる身体は一度にひとつですが、ふたりいれば身体がふたつ。ひとりが10見せられるものを20に、もしかしたら相乗効果で30に増やすことができるかもしれません。
松 尾:
人間と人間の関係ということではなく、効果としての関係ということでしょうか。確かに、対象がひとつしかないと、それしか見ることができないですもんね。
高 嶋:
そして、どうしてもそのひとりの個人性に依存してしまいますよね。たとえば、『羅列する』と『Fit back?』にしても、構造は似ているけど大きな違いがある。それは、ソロ作品である『羅列する』では松尾さんの身体しかないから、そこから派生したものしか見ることができない。でも、デュオ作品の『Fit back?』では、提示されていたバリエーションがたくさんあったように思います。

とにかく試す 試す 試す

高 嶋:
作品づくりの時は、松尾さんからこうやってくださいという指示が出るのではなく、スタッフも含めて話し合いながら進めるんでしょうか?
松 尾:
そうですね。私もアイデアが浮かべば出しますけど、基本的には人から出たアイデアを、なんでもおもしろそう、やってみようってなるので、とにかく色々と試します。トップダウン的な作品づくりにはあまり興味がありません。自分がやりたいこと、見たいものからずれそうになった時はストップをかけますが、あとはやっている人の身体からアレルギー反応が出ず、満ちた状態であればOK、ということにしています。
あと、話し合いはかなりします。稽古時間3時間、ずっと話し合いで終わったこともありますね。今回も、そういった一緒に作品づくりをする人のレスポンスを大事にしていきたいです。私はよく、なにかを試してみたあと、「これどうでしたか?」って、かなりざっくりとした聞き方をします。こういうことをしたくてこれが見たい、ということを示してしまうとそれを意識してしまって幅が狭くなってしまう気がするので、なるべく可能性が多く残る形で問いかけをしたいと思っています。実際は不発に終わることの方が多いんですが、それでも数をやっていればひとつかふたつ、いい言葉が出てくるっていうわくわく感で作っています。
高 嶋:
不発だというのは、松尾さんが求めていたものと実際にやったダンサーが感じたものが違う場合ということでしょうか。
松 尾:
そうですね。想像したこと通りのことが起こることはほとんどないんですけど、これが実現するとは思わなかった!というような状態になることが理想で、不発というのは、ダンサーから、やっていることに対してアレルギー反応のようなものが出てきた時でしょうか。もっとダンサー自身がよく見えるように、本人がよい状態と言うよりは私がよいと思える状態になるまで、手を変え品を変え実験を繰り返します。『Fit back?』の時は、ほぼ不発でしたね。さんざん試したんですが、実際に作品に残ったのは序盤に取り組んでいたいくつかのピースで、あとはいったい何に時間をかけていたんだろう…という。私、勘がよくないんですよ。だから、100本ノックじゃないですけど、そうやって積み上げていくしかないんです。でも、その不発になった100本を経て見えてくることがあるので、自分にとってはそのたくさんの無駄も必要だと思っています。

インタビューを終えて

松尾恵美:
これからの作品の構想を語るという事に不安もありましたが、現時点(創作前)の頭の中をさらけ出すというのも必須行程であったと感じます。私の過去の振付作品を観てくださっていた高嶋さんに、外側からの率直な質問やご意見を頂き、返答を重ねて行く中で、過去の作品の印象と頭の中に描いていた次回作の妄想を照らし合わせていく充実した時間となりました。創作前という事もあり冷静に。また作品の構想以前に、ダンスにおいての価値観、何に対して美意識を感じるのかという事も合わせてお話できた事で、より創作に向けてのピント調整ができた様に思います。
高嶋慈:
松尾さんの制作スタイルは、創作メモを書く=作品制作に向かう衝動を言語化して客観視することが出発点にあったり、作品も構成やルールがかっちり決められたミニマルなものなので、稽古では、到達地点までの道筋がクリアな状態で進んでいるのかと思いましたが、「100本ノックのようにとにかく試すし、不発も多い」という言葉を聞いて意外でした。
今回の作品でも、「見ている対象がどんどん変化していくという状態を狙いたい。ただ、反復や身体への負荷、あるいは言葉での説明といった方法以外で可能なのかを試してみたい」と聞き、どのような過程を経て作品として立ち現われるのか、とても楽しみにしています。

松尾恵美作品 [つくっている最中]

【岡崎大輔→松尾恵美 インタビュー (2回目) 2014年 5月3日(土)京都 銀閣寺道】
今年は、相手をシャッフルして、いつもとは違うインタビュアーとの対話も試してみました。岡崎さんと松尾さんの初顔合わせ。佐藤さんとのインタビューではどちらかというと聞き手モードの岡崎さん、今日はどんどん質問で切りこんでいきます。松尾さんはたじたじとなりながらも、答える言葉を探って行きます。

俳優の身体と感情の関係

岡 崎:
昨日、福岡さんはお休みでしたが、大原さんとの稽古を見学しました。今、作品づくりとしてはどんな段階ですか?
松 尾:
ふたりに何をやってもらうかは大方決まってきたので、そのやり方をアレンジしたり、試している段階ですね。ふたり揃った稽古では、19分ぐらいの通しもしています。
岡 崎:
昨日は、身体の部位を意識する稽古といった印象でしたが、ああいった稽古を重ねているんでしょうか。
松 尾:
大原さんには、ああいった部位を意識する稽古と、涙が出るまで感情を高めていく稽古をやってもらっています。ただ、泣きの稽古になると、鮮度ということも問題になってきて、どうやったら美しいと思える状態に近付けるか、方法を模索している段階です。
岡 崎:
身体の部位への意識と感情、なぜそのふたつのトピックなんでしょうか。
松 尾:
私はダンスをしているので、役者さんは自分とは違う、特別なことをしているんじゃないか、と思っている部分があって。たとえば、悲しい気持ちの役柄をやる時は、悲しさに浸っているんじゃないかと。それを大原さんに尋ねると、たとえば夜ごはんのこととか、たまに全然関係ないことを考えているぐらいですよ、と答えたんですね。でも、悲しみっていう感情に向かっていく身体の要因がどこかにあるはずだと思って、身体と感情の双方からいろいろと試してもらっていますね。
岡 崎:
昨日僕も大原さんと話をしたら、大原さんは今まで演劇をやってきていて、ダンスをやったことは全然ないと。そもそもダンス経験のない人となぜ作品を作って行こうと考えたのですか?
松 尾:
たとえば福岡さんのようにダンスをしてきた身体にはない、もどかしさや出来ないこと、その不安な状態や切実さというのに興味がありました。もちろん、振付を渡したらすんなり実現できる身体ということも非常に重要だとは思うのですが、そこだけで展開していく作品づくりに興味を持つことができなくて。前回作った『Fit back?』(2013)でも、ダンサーでもありながらパフォーマンス寄りの活動をしている方に出演してもらったんですが、身体への違和感の持ち方が全然違ったんです。その違いから、発想が広がりやすくなりました。そういうことから、今回の出演者はひとりはダンサーで、もうひとりは、あまり舞台経験のない人もしくは役者でできれば、と企画側に伝えました。
岡 崎:
では、ご自身で敢えてそういうキャスティングを希望したんですね。

無責任だけど、誠実な立ち方ができる人

岡 崎:
ダンサーである福岡さんと一緒にやりたいと思った理由はどこにありますか?
松 尾:
福岡さんは、以前一度共演したことがあって、その頃から興味を持っていましたね。彼女は、演技をしません。たとえば今福岡さんにやってもらっていることを、自分がダンサーとしてやろうとすると、かなり演技でまとめてしまうなって思うんですけど、福岡さんは不思議とそうならない。もちろんすごく器用に身体を動かせる方だし、ひとつひとつ丁寧に動いているんだけど、踊っていない…うーん、表現が難しいんですが。やっていることよりも、そこに立っている福岡さん自身が引き立ってくるような印象があります。
岡 崎:
そういう福岡さんを見ていたら、どんな感じがしてくるんですか?
松 尾:
飽きることなく、ずっと見ていられる、って感じでしょうか。ただ座っていてぼーっとしているだけでも。稽古で一度「稽古場に入ってきて、何かをして、そのまま去ってください」というざっくりとしたお題を出した時に、福岡さんは、服をバッと一枚脱いで出て行きました。ただ、それだけなんですけどね、私は感動してしまう(笑)。何をするにしても、無責任だけど誠実さも同時にあるような人ですね。何をやるか読めないというのもあって。
岡 崎:
わざとらしさとか、「よし、踊ります!」みたいな自己主張のあるダンサーは、あまり好きではないんですか。
松 尾:
作品によります。そういう主張が必須の作品もあるだろうし、そうではない作品もありますよね。
岡 崎:
昨日の稽古では、大原さんに「よし、やったろ」感が出てると、それを消してくれって言ってましたね。
松 尾:
そうですね(笑)。自我を消してほしいっていう事は初回の稽古から伝えています。彼が出演している舞台を今まで2回観たことがありますが、どちらも、大原渉平という自意識がとてもあるように見えました。もちろんそれはその演劇の中で成立していたのですが、今回の作品では違う居方がいいのでは?という気がしています。むしろ、大原さんの今までとは違う新しい立ち方の可能性を探りたいと思っていますし、彼も意識をして稽古に取り組んでいます。ただ、すぐには難しいですね。無意識にしみついているものが大きいですし。
昨日、岡崎さんが稽古を見ているだけでも、なんというか、がんばってしまうというか。本番は更にお客さんがたくさんいるからテンションが上がっちゃうと思うんですけど、それを極力抑えて内部で葛藤が生じるような仕組みを、演出で作らないといけないなと思っています。

稽古場でどのぐらいしゃべるか

岡 崎:
稽古場では、たくさんしゃべっていたような印象を受けました。
松 尾:
けっこうしゃべりますね。ダンサーと役者で違うのか、大原さんがそういうタイプなのかはわからないんですが、大原さんからはよく、わたしが何を見たいのか、何をしたらいいのか、どのようなあり方がいいのかっていう説明を求められます。きっと、納得した上でやりたいんですね。その分私からも「今のはどうだった?やりづらさはある?」などと、質問を投げています。たぶんダンサーとだとあんなにしゃべらないと思います。福岡さんは、なにかを投げると、「じゃあやってみます」って感じになりますね。
岡 崎:
佐藤さんの稽古場では全然しゃべらず、ひたすら黙々とやっているので、違いに驚きました。 大原さんには、今まで持っていたものも大切にしつつ、別の可能性をひらいてみたいという話がありましたが、福岡さんへのアプローチはどうなんですか。
松 尾:
福岡さんの違う扉を開けようという欲求は、今はないですね。彼女が持っていて私がいいと感じている部分をどう実現できるか、自分がやろうとしていることとどうリンクするかっていう一点のみです。対照的に、大原さんにはどんどん欲がわいてきますね。私はすごく遠回りをしてしまうので山ほど試すからしんどい思いはしていると思うのですが、彼はすごく真面目で吸収も早く、どんどん変わっていきます。素直ですね。本番には、かなり変化が出ていると思います。もともと、大原さんが開演前のアナウンスをしている姿を見て惹かれて、この人とダンスというか、身体のことを一緒にやったらどうなるんだろうなっていう興味を持ったんです。その直感は間違っていなかった。

自分がやってみたら、拷問のようだけれど

岡 崎:
「ねほりはほり」の今回の機会を使ってやりたいことはありますか?
松 尾:
シーンや振付の組み立てではないダンスをしたい、ですね。たとえば、本番当日まで決まっていないところがあって、出演者当人の感覚に任せられている。そういう不安を抱えていても人の前に立たなければならない、というような。たぶん自分がやれと言われたら拷問のようですが、ダンサーが安心できるところを極力与えずに作品ができるかどうか。言葉や物語で説明したくはないですね。あと、共感もあまり求めていません。複数のタスクをずっとこなしていかなくてはいけなくて、そのやりづらさ、すんなりいかなさと葛藤している身体をそのまま舞台上に上げてみたい。
岡 崎:
どうしてそんなことを思い始めたんでしょうか。
松 尾:
なんででしょう。『Fit back?』でもそうでした。ひとりのダンサーが休みの時に代わりにやったら、自分ではやりたくないって思うぐらい精神的にも肉体的にもハードなことを課していましたが…
岡 崎:
自分がやったら拷問だろうなっていうことを、自分ではなく人にやってもらう意味ってどこにあるんでしょうか。たとえば、見ている側からすると、そういうきついことをやっている人が、松尾さんでも別の人でも、見るものは一緒ですよね。でもそこで自分が立つのではなく、人にやってもらうという選択はどこからくるんでしょう。もちろん、自分がやりたくないから、ということではないと思うんです。そこに何か意味があると思うのですが。
松 尾:
そうですね…自分が興味を持っている身体、美しいと思う身体というのがあって、それを見たいから、人にやってもらう、ということでしょうか。自分でやっていると、美しいとか、そういう感覚は得られないんじゃないかと思っていて。…すごいわがままですね(笑)。でも、それが大きいんだと思います。
岡 崎:
自分がいいと思うものを見たい、ということですが、松尾さんは作品をどのように見ていますか? たとえば、大原さんに違うと言ったり、福岡さんには新しいことではなく今あるものを出してほしいと思ったり、そういった判断はどこから来るんでしょうか。それがわかれば、どこをどう見たらよりおもしろくなるのかというポイントもわかってくる気がするんですが。
松 尾:
そうですね…お客さんにどう見てほしいかっていうことは、あまり考えてないです。
岡 崎:
いえ、お客さんのことというよりは、松尾さん自身がどのように見ているか、ですね。全体をぼやって眺めているとか、ある部分を集中して見ているとか。
松 尾:
どちらも行き来しているんですが、それを自分であまり根拠のある形でコントロールはできていないですね。ぼやっと見過ぎていたら、点で見たり、集中し過ぎていたら、全体を眺めたり。いずれかに偏り過ぎるとだめだな、という感覚はあるんですけど。
岡 崎:
ということは、ひとつの作品を5回見ていたとしても、毎回違った見方や感じ方をしているんですか。
松 尾:
そうですね。だからといって、見るところ自由で、自由に考えてくださいっていう風に投げているわけでもなくて、作り手としてはここを見せている、こういうことをやっているという意識は明確に持っているんですけど、その上で、見ている人が何に集中して何を感じるのかは、限定しません。わかりにくく作っているつもりはありませんが、お客さんが見やすいようにわかりやすく、という気持ちはありません。
岡 崎:
自分が見たいもの作っているわけですから、そうですよね。

観客がいるから、作品をつくる

岡 崎:
個人的には、じっくり見る作品なのかな、と想像しました。一言で片づけてしまうとなんだかよくわからなかったで終わってしまうかもしれないけど、じーっと見ていると、あれって思うような。
松 尾:
何をしていたのかわからないと言われる可能性は、大いにはらんでいる気がします。でも、「ここを動かしてるよ」って主張したらわかりやすくなることでもないですし。身体だけを見るために、余計なものはなるべく排除したいですね。人生観とか、ロマンとかも。
岡 崎:
自分が作りたいものを作り、見たいものを見るとすると、それってたとえば、お客さんはいなくてもいいんじゃないですか?
松 尾:
いや、いた方がいいです。じゃあ、山でやればいいっていうことですよね。そうでないから作れるんだと思うんです。
岡 崎:
ああ、そっか。
松 尾:
どう思われようが、他の人がこれを見るっていうことが先にあるから、こんなにもぐるぐる考えながら、ものを作れるんだと思うんです。誰かが見るっていうことは大事で、お客さんがいなくていいとは思いません。矛盾しているかもしれませんけど…。
岡 崎:
いや、矛盾はしてないと思いますね。どう思うかは知らないけど、とりあえず見ろってことですよね。
松 尾:
勝手ですね(笑)。

インタビューを終えて

松尾恵美:
出演者を決めた理由、その人達と一緒に作品を創ること、その先に観客がいるということ。創作における一つ一つの『当たり前』を岡崎さんに改めて問われ、自分自身に対して突き返しながらのインタビューとなりました。岡崎さんから問われた質問に対して答えをはっきりと言葉にできなかった。それだけグレーゾーンが残っていたのだなと感じます。本番間近となった今、あの時よりも少しだけ、言葉にできるのでは?そう思います。
岡崎大輔:
松尾さんの稽古現場を見学させていただき、作品づくりにおいて「これ」といった軸をお持ちのように感じました。それはダンス未経験の大原さんの動きに対する観察やフィードバックから感じました。そのためインタビューでは松尾さんにみえている「これ」が一体何なのか、純粋に知りたいという好奇心から次々と質問が湧いてくる時間になりました。残念ながらそれをはっきり読み解くことはできませんでしたが、その分作品をみる楽しみが増した気がします。そもそも言葉ではなく、ダンスという身体を用いて方法が表現されるわけですから、とにかく見て感じたことをもって、再び松尾さんとお話したいと考えています。
上演作品 佐藤健大郎「筒状の白いsara」・松尾恵美「形創るこわれ
日程佐藤健大郎作品 2014年 6月7日(土) 12:30 8日(日) 15:00
松尾恵美作品 2014年 6月7日(土) 15:00 8日(日) 12:30
場所 元・立誠小学校 2階 音楽室 google map
料金 1,000円(当日券 +300円)
※ねほりはほりセット券 1,500円
上演時間 30分+トークセッション30分

関連PROGRAM

ARTIST

松尾恵美まつおえみ

1984年香川県生まれ。3歳よりクラシックバレエを始める。2006年に京都造形芸術大学 映像・舞台芸術学科に入学。在学中ダンスカンパニーKIKIKIKIKIKIに所属し、国内外のツアーに参加。大学卒業後、フリーに活動。これまで、様々な振付家・演出家の作品にダンサー及び俳優として出演。自身の振付作品に『羅列する』『Fit back?』がある。 (撮影:相模友士郎)

INTERVIEWER

高嶋慈たかしまめぐみ

美術批評。京都大学大学院博士課程。「明倫art」(2011~13年)、批評誌「ART CRITIQUE」、小劇場レビューマガジン「ワンダーランド」などの媒体や展覧会カタログにて、現代美術や舞台芸術に関するレビューや評論を執筆。企画した展覧会に、「Project ‘Mirrors’ 稲垣智子個展:はざまをひらく」(2013年、京都芸術センター)、「egØ-『主体』を問い直す-」展(2014年、punto、京都)。

岡崎大輔おかざきだいすけ

京都造形芸術大学 アート・コミュニケーション研究センター 専任講師。数年前までアートとの接点が少なかった自身の経験をふまえ、コワーキングスペース往来の「暇活」(http://ourai.jimdo.com/himakatsu/art)を中心に、誰もがアートとの出会いを楽しめ、誰もがアートと親しめる場づくりを実践している。