Dance Fanfare Kyoto

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今村達紀(Dance Fanfare Kyoto vol.02)

Dance Fanfare Kyoto に参加して、変化している中で変わらないものがちゃんとあることを、変わらず走り続ける人がいることを、その大切さをありがたく感じました。芯がまったくぶれてない振付家、ダンスに愛情をもって向き合っている人、はじめてのことに挑戦しているとは微塵も感じさせないダンサー、相変わらずおもしろいミュージシャン。

 美術×ダンスのお話を頂いたときに、ただ舞台美術を作ってもらうことや、ただ美術作品の中で踊ることはしたくありませんでした。美術×ダンスになる方法を模索したいと思いました。そして、美術家の村田宗一郎さんと、話をしたり、ダンスの稽古を一緒にやってみたり、一緒にフィールドレコーディングをしたりするなかで作品が少しずつ形作られていきました。そして、お互いの興味の接点をつくれる言葉をタイトルに選びました。
 村田さんがインスタレーションでつくった場にたいして、来訪者は何をするのか。来訪者は大胆にまたはささやかに場を作り替えるのではないか。そんなことを考えながらつくった動きが、村田さんがインスタレーションを設置している動きと似かよっていたのは面白かった。
 つくっていく過程で、美術×ダンスという「箱」の中にいろいろ考えたことを雑然と詰め込みました。それは作品の表面に出てこなかったものもあるし、お互い矛盾しているものもある、言葉に出来ないものもあります。作品の表面に出てこないかもしれないが、それが遠くの背景にあることが大切なことかもしれない。そう思って整頓せずにいたと思います。
 例えば詰め込んだ考えの中にはこんなものがあります。
「生物学的厳密さで考えると完璧に繰り返すことはできない。完璧に止まることはできない。けれども、表象としては、繰り返して見えることや完璧に繰り返しているように見えることはあるし、完璧に止まっているように見えることはある。」
 これが振付にどう影響したかと言うと、繰り返しのような動きを不条理なトライ&エラーととらえて振りつけていました。同じ動きはできないのに同じ動きを繰り返さなければならないという不条理な挑戦。このことが美術を設置しては遠くから眺め、また微妙に動かして遠くから眺めるという村田さんの動きと重なった要因の一つかと思います。

 この美術×ダンスをやるにあたって、過去に同じことをやっている人がいても、やってもいいじゃないかということをどこかで思っていました。多分その手法が新しいかどうかに基準を置かないようにしたかったのだと思います。ダンスととらえることもできる方法であったらいいと思っています。
 そうそう、パンフレットにのせるのをやめた文章の下書きみたいな文章を掲載しておきます。
「そこはやっぱりわからないので、繰り返し訪れようとおもいます。繰り返し繰り返し訪れようと思います。わかるかどうかわからないから繰り返そうと思います。」
「繰り返し訪れる中で、以前は新鮮だったものが新鮮でなくなったり、あるときまた急に新鮮さがよみがえってきたり、同じ場所に同じように来たつもりでも毎回違うものではないですか。」
 美術×ダンスを終えたあと、生物(または命)にかかわること、ミニマリズムということは実は小学生の頃から自分の興味の対象であったことに気付かされました。

 Dance Fanfare Kyotoを終えての課題はたくさんあるのですが、わからないものをわからないから知りたいにかえることが一番の課題だと思っています。「visiting」をどこかで再演、再創作する機会がもてるようにできればと思っています。 

美術と踊るとは何かということを考える機会を頂いて、いろんな作品が集まる場にかかわれて、Dance Fanfare Kyotoにかかわれてよかったと思っています。この熱が続いていくことを願っています。その熱を上げることにかかわって行ければと思います。

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AUTHOR

今村達紀いまむらたつのり

教会からお寺、舞台から路上まで幅広く踊る。最近の活動に美術家村田宗一郎との「visiting」、桑折現演出の「Today」、関節を鳴らすサウンドパフォーマンス「関節話法」、ルールにしたがって息を止めて踊る「無呼吸」などがある。
http://blog.imamuratatsunori.net