Dance Fanfare Kyoto

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三田村啓示(Dance Fanfare Kyoto vol.02)

個人的な話だが、昨年のDance Fanfare Kyoto vol.1で「ねほりはほり」という企画にインタビュアーとして参加してから、私のダンスに対する興味・関心は俄然強くなった。所謂ダンス・パフォーマンス公演に足を運ぶことも少しであるが増え…というかまず折り込みチラシの束でダンス公演のチラシを素通りせず一々チェックするようになり(そこで気づくのが大阪という町のダンス・パフォーマンス系公演の少なさであるのだが)、挙句の果てには自身がダンス公演に参加することになったりと、以前に比べてほんの少しはダンス・リテラシー(?)は上がったつもりではいるのだが、今このダンス業界が一体どういう感じで何が起こっているのか…までは勿論全くの無知である。

ただ、この企画のほぼ全てのプログラムにおいて、異なるジャンルのモノとの出会い(ダンサーとインタビュアー、ダンサーとミュージシャン等)が仕掛けられていることから察するに、今「ダンス」は異なるジャンルのモノと積極的に出会わなければならない(少なくとも関西/京都において)、という切迫した危機意識のようなものがあるのは確かだ。

今年、私は全てのプログラムを観ることは叶わなかったが、観た作品は実に興味深いものだった。 まずPROGRAM01「カケル×ダンス」の「美術×ダンス」。元・立誠小学校の小さな教室に美術家(村田宗一郎)が整然と配置した脚立・木材・木箱・板などのインスタレーションがある。ダンサー(今村達紀)は板を手に取り、それを軸に歩きまわったり、規則的な動きを繰り返しているようである。もっとインスタレーションに積極的にコミットするのか、といえばそうでもなく、いわば寸止めのような印象もあり、板をツールに配置されたモノたちとの位相を恐る恐る、時に大胆に探り続けているような印象がある。また時折足元のサンプラーを操作し、恐らくフィールドレコーディングしたと思われる音楽が流れたりもする。これが(パフォーマンスの尺の短さもあるのかもしれないが)なかなかに飽きる事無く観続けていられるものとなっているのだが、ただ作品を観ただけではこのパフォーマンスの細部及び全体が一体どういう論理/感性でもって創られ、ダンサーと美術家とのどのようなやり取りがあった/なかったのか、掛け合わされた結果として何が生まれていたのか、は正直分からない。
共に言語情報が存在しない「美術」と「ダンス」がさらに掛け合わされているこのような作品こそ、(後述するPROGRAM02の「ねほりはほり」までは行かなくとも)終演後観客を交えたトーク・セッションが必要な感もある。そのことは観客の作品受容において決してマイナスにはならないだろう。

PROGRAM02「ねほりはほり」は2作品とも観ることが出来た。簡単に要約するとまず松尾恵美による振付・構成の「形創る」は、ミニマルテクノ(?)風の音楽が流れる中「外郎売」を喋る俳優とダンサーによるデュオ。もう一つの佐藤健大郎による振付の「筒状の白いsara」は、延々と自分の母親のエピソードを喋り続ける3人の女性ダンサーによるパフォーマンス。
この「ねほりはほり」という企画は前回vol.1からの引き続きであり、インタビュアーを立て創作過程を複数回のインタビューによって検証することでダンサー・振付家の言語能力を鍛える、というのが意図の一つとしてあるのだが、ダンスの「楽しみ方」もしくはリテラシーを広めるツールとしての可能性もある――つまり観客を育てるポテンシャルも含んだ重要な企画だと思う。そのためには終演後のトーク・セッション及び創作過程インタビューの場の射程をどのように何処へ向かって定めていくのか、良い意味でまだまだ拡張の余地が残っているのではないだろうか。

そして、東京デスロックの多田淳之介を招聘して創られたPROGRAM03「SYMPOSION」。Dance Fanfare Kyotoのプログラムでありながら、一見ダンスの欠片も見られないこの作品を観客はどのように観たのだろうか?
ダンサーはもとより俳優や演出家やプロデューサーなど、出演者として集められたバラバラのバックグラウンドを持つ面子による様々なテーマに基づいたフリーな対話/議論が、(観客を微妙な按配で巻き込みつつ)巧妙に仕掛けられたワークショップ的作品、と乱暴にレジュメすることは出来る。 私の観た6/8の回の議題は「関西/関東の観客の違い」「日本が戦争すると思いますか」、そしてお茶菓子休憩(!)を挟み「SNSについて」「愛について」・・・というもので(6/7においては前半二つの議題は異なるものだった、と聞く)、議題に沿って出演者たちの対話が進行していくのだけれど、各々が持つ「芸」から引き離された生身のパフォーマーたちが、親近感を感じる云々とは紙一重でいかに頼りなげな存在かが白日の下に晒されている場に居合わせている(ただ彼らがそう演じている可能性も否定は出来ない)という意味で、私にはある意味ショックな体験でもあった(そして強く自身を省みざるを得ない)。
特に2つ目のテーマ「日本が戦争をすると思いますか」。アーティストがいかに大文字の政治に対して無知であるか、浮世離れした存在であるかがそこでは暴かれてしまっている。自戒を込めて矮小化すればアーティストがいわゆる「朝生」「しゃべり場」的なことをやるとこんな残念なものに成るのか…勿論全てのアーティストが高度に政治化すべきだとは全く思わないけれども、ある種の残酷な光景を観てしまったような気がしたのは私だけではなかったのかもしれず、観客からも以下のように自発的に意見・質問が挙がった(ただそれも所謂「仕込み」だった可能性を否定できないのがこの作品の怖さなのだけれど)。
“なぜ安倍政権・集団的自衛権の話題が出ないんですか?”
“「政治」と今生きている私たちが何か別物のように思っているんですか?”
だがこの「作品」は観客と対話で関わることを積極的に行わず、2つ目の質問に至っては出演者側のリアクションを待たず半ば強制的にお茶菓子休憩に突入する形でスルーされるという有様であり、ここまでは観客の介入をシャットアウトしストレスを与える=もやもやさせる意図があるのは明確だ。だが打って変わって後半の「SNSについて」は観客・出演者入り混じっての対話となり、続いての「愛」をテーマにした出演者のスピーチにはその素朴さになぜか感動させられたような気分になる。そして最後、自ら登場した多田氏による「人は何のために喋るのか」という問いに、恐らく多くの観客は与えられたわずかな沈黙の中でその答えを思考せざるを得ない状態で放置されたままこの作品は唐突に終わってしまうだろう。
一見敷居の低い観客参加型作品の場作りを装いながら、出演者たちが見せる無防備さを通したアプローチ/負荷によって観客が舞台芸術コミュニティから社会や世界や対話とは?に至るまで、コトバでもって思考すること――いわば思考させる振り付けとも言うべきもの――が演出家の手で極めて周到にデザインされている怪作であった。言うまでも無いが「Dance Fanfare Kyoto」の枠内でこの作品がプログラムの1つとして上演された意義は大きい。

凝り固まったダンス観を撹乱する、さらにラディカルな異種混合の試みが次回の「Dance Fanfare Kyoto」でも継続されることを期待しています。

関連PROGRAM

AUTHOR

三田村啓示みたむらけいじ

俳優、空の驛舎、C.T.T.大阪事務局、舞台芸術雑誌「ニューとまる。」編集部。 主に大阪を中心に活動。学生劇団を経て、俳優としては2005年より空の驛舎所属、外部出演も多数。またC.T.T.大阪事務局員として、創作環境の整備にも地道に取り組んでいる。
加えて近年は執筆活動も並行して行っており、明倫art(京都芸術センター発行)の演劇レビューを担当中。