Dance Fanfare Kyoto

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インタビュー増田美佳作品 ねほりはほり (Dance Fanfare Kyoto vol.01)

増田美佳作品 [つくる前]

【三田村啓示→増田美佳 インタビュー (1回目) 2013年 5月1日(水)京都 出町柳周辺】
増田美佳さんと三田村啓示さん、お二人の初対面であり、インタビュー初回。 お互い緊張した面持ちで始まった対話は、演劇を主なフィールドとして活動している三田村さんが 「ダンス」や「即興」を増田さんに問うにつれ、徐々にほぐれ、深まってゆきました。

自己表現と、自己表現ではないもの

三田村:
まずは素朴な質問ですが、なぜダンス作品をつくるんですか?
増 田:
まず日常から少しずらしたところで人の姿を見たい、ということがあります。社会に登録され縁取られた認識でその人を見るのではなく、生きている状態の人、というと妙な言葉かもしれないですけれど、もっとその人そのものが見たいということがあって。そういう人の姿を見るための時間をしつらえたいというのが動機といえるものですかね。
三田村:
例えば、この人は何歳で、どこ生まれで、何々の仕事をしていて年収が幾らとか、そういうものを取っ払った、ありのままの生命とでも言うべきものを抽出したい、ということなんでしょうか。ずっとそういうモチベーションで創作していらっしゃるんですか?
増 田:
自分で作るという機会はまだ少なくて、人の作品に出演することが多かったんです。ある状況に接したときに「わたし」というものはあらわになるものと考えると、日常とは異なる場所に晒されようとするのは「わたし」という状態に揺さぶりをかけたいという欲望があるからだと思います。
三田村:
今回、どういう作品を作ろうとしていますか?
増 田:
「式日」というタイトルをつけようと思っています。具体的にやろうとしていることはいくつかありますが、まず、生まれてきて死ぬっていうことを考えています。自分がここにいる「今」っていう状態は、すでに始まっていて終わりがある、その間の地点。そういうことを浮かび上がらせる形式として、儀式の所作や様式というものが気になっているところです。
三田村:
ダンスの面白さはどういうところにあると思いますか?
増 田:
興味深く感じるのは、自己表現をしているわけではないのだけど、意思はあって、でも動かされているような体を見るときです。イタコみたいに何かが乗り移り動かされる状態ではなくて、本人の意思はあるけれど、そこで動き出す時に自分を手放していると見える状態。
三田村:
ではダンスにおいて、自己表現以外にはどういう状態があるんでしょう?
増 田:
踊るときに受動的に動くという言葉を使ったりします。100パーセント受動的だと、動かないということになってしまうけど。受けて動くということをすごく単純に言うと、たとえば、目の前で行われた動きと同じ様に動いてみたり、聞こえた音に反応するとか。
三田村:
それは自己表現ではないと?
増 田:
自分を出来る限り知覚に徹するものとして扱うという感じです。
三田村:
僕はダンス作品をそこまで頻繁に観てはいないのですが、おしなべて自己表現に見える面が強いという印象があります。勿論それが悪いということではありませんが。
増 田:
それは私も自分で言いながら思うところではあって。客観視というのも、そういうイメージの主観でしかなく、結局戻ってくるんじゃないかと思うんです、いくら遠ざかろうとしても。
三田村:
自己表現に?
増 田:
自己表現というか、「わたし」っていうものが起点になっているということに。当然のことなんですけど。結局はそこに安住しないということしかないのかも知れないです。揺れているというか、ブレている状態を維持すること。
三田村:
自己表現と自己表現を越えた何かの間を揺れ続けるということ?
増 田:
自分と自分じゃないものかな。
三田村:
自分じゃないもの、って何なのでしょう。
増 田:
自分にはしっくりこないものってあるじゃないですか、もしかしたら、そういうものに触れに行ってみないとダメってことかもしれない。
三田村:
例えば?
増 田:
他人の体。

踊っている時の状態

三田村:
増田さんの考えを、パフォーマーにどうやって意識してもらいますか?
増 田:
まずそれぞれのことを知りたいし、出演者の3人と共有できる下地をつくる稽古をしていくつもりです。どういうことを投げかけることが必要で、何を制御しないことが必要なのかを見つけたいです。
三田村:
踊っている時って、何を考えているんですか?
増 田:
人によると思いますが、私は踊るとき即興であることが多いので、考えてというよりは、反応していくという感じがします。受けたものを自分の中で咀嚼する時間を与えないで、瞬時に選びとった形から形に繋がっていく。そういう踊り方を、常にできていると言い切れないですが、いつもしたいと思っています。もちろんそのなかで考えることもあります。たとえば、足があんまり動いていないなって気付いて足を動かすということもある。でも足あんまり動いてないな、まで考えてないかも知れないです。「あ、そや足」って。
三田村:
考えるっていうよりは…
増 田:
単語が浮かぶみたいな感じですかね。
三田村:
ひらめきとか、そういう次元の話ですよね。
増 田:
そうですね。無になってるみたいなことはないですね。
三田村:
何をやっているか全然覚えていなかったとか、トランス状態のような瞬間はあるんでしょうか?
増 田:
私は全然ないです。
三田村:
ダンスって、何をもって「上手い」っていうんでしょうか。上手いダンスって何なのでしょう?
増 田:
…即興で踊ってて上手いなと思う人は、知覚の範囲が広い人ですね。たとえば、小さい物音やかすかな変化も拾える、反応することが動きになっていく。あと、その時の状況への反応が、場に対して批評的であればあるほど面白いと思います。
三田村:
「場に対して批評的」というのは?
増 田:
簡単に言うと、空気がなだらかな感じで続いているのを、ぱっと違うアイデアを投げ入れて、場が別のリズムに乗れるというか。それによって広がりが生まれたり、そこからまた別の展開が起こってくる要素を提供できるということです。
三田村:
いい感じの転調のきっかけを作れる、と。
増 田:
場が自由になることに献身的であって、それが自己犠牲でなく、むしろそのことによって多様でいきいきして見えてくる。そういうことが出来る人は上手いと思います。技巧というより意識の置きどころの問題です。

ダンスを楽しむためには?

三田村:
面白いダンスと、面白くないダンスの違いはどこにあるんでしょうか。
増 田:
面白くないのは、与えられた振りをこなしているようにしか見えないダンス。踊っている人はそうじゃないのかもしれないけど、そう見えるなものはおもしろくないと思いますね。あと意図が観客にはっきりと伝わってこないもの。
三田村:
演劇もそれはあると思います。下品な言い方をしたら、自慰行為的なものというか。
増 田:
見ている視線がある、観客がその場を共有していることをどう捉えるか。そのことに対する視点をもたなければ見ている人は置き去りになるし、そういえばなぜこれを見てるのだろうと思い、ついていけなくなってしまいます。
三田村:
演劇で例えると、お話についていけないっていうことが、「なんだかよくわからない」となってしまう作品の理由の一つだと思うんですけど、ダンス作品でついていけないっていうのはどういう感触なんでしょう。
増 田:
さっき言ったことと重複しますが、為されていることのリアリティとその根拠が観客席まで伝わってこない場合だと思います。でも、なんだかわからないけど問答無用の説得力を感じるということもダンスにはあります。観客として面白いなって思う時の自分の感じって、身体が自然とちょっと動いてしまうみたいなことがあるんです。観客席にそういうことが起こるってことは、たぶん観客がいるってことを意識していて、かつその意識が観客席に届いているって思うんですよ、
三田村:
ダンスを楽しむためには、見る側にリテラシーみたいなものが必要なのでしょうか。ダンスがわからないという人に対して、ダンスの見方みたいなものをレクチャーするとしたら、どうしますか?
増 田:
ダンスの何を見ているのかについてダンスをしている人と話すと、「身体を見に行く」っていう答えをよく聞くんですよね。でも、たとえば自分の親とか、普段ダンスを見ない人は、やっぱり違う。パンフレットにあるタイトルと内容を見て、「今からこういうことをするんだ」って思って観る。そこでやっている動きが何を表わしているのかってことを読みとりたい、でもそういう意識でいると、「わからない」ってことになるよなって思うんです。 体を見るってマニアックなことなんでしょうか…演劇ではまた違いますか?
三田村:
様々な人がいるので一概には言えませんが、おそらく物語を見に来ている人が多いとは思います。
増 田:
人にはもこういうありようもあるんだ、という素朴な発見をしてもらえたらいいなとは思うんですよね。
三田村:
ダンスを楽しむには、身体っていうものに注目する意識が必要になる、ということでしょうか。ちなみにダンス作品を見に来る人ってどういう人が多いんですか?
増 田:
そうですね、ダンスをやっている人、舞台に関わっている人が多いと思います。誰に向けてなぜやっているのかわからないから見に来づらいのでしょうか。
三田村:
誰に向けて、何のためにやっているのか。僕も、ダンスが単なる自己表現以上でも以下でもないんじゃないかっていうことを考えてしまう理由は、そこにあるんですよね。例えば、非常にベタな話ですけど、俳優なら評価されてテレビに出たいとか売れたいとかありますよね。ダンサーの方はどういうモチベーションがあるんでしょう。
増 田:
それは人によって違うところですよね。売れたいというか、ダンサーとしてやっていきたいという方もあるだろうし。踊るという体感が担保になっている部分、解放や自分の喜びのためにということもあると思います。
三田村:
増田さんは、誰に向けて踊っているんですか?
増 田:
踊っている時その場を共有している人としか言えないです。

「即興」で踊ることへの関心

三田村:
ダンス以外のものを見て、作品や自身のダンスにフィードバックすることはありますか。
増 田:
読んだり観たりする中で、自分の考えていることに響くものを探してしまっていると思います。
三田村:
最近出会った他ジャンルの作品で、印象に残っているものはありますか?
増 田:
マリオ・ジャコメッリという写真家の作品ですね。主に白黒の写真を撮る人で、男性の修道士が雪のなかで踊っている写真があるんですけど、今回の作品を考えている時に見返しました。
三田村:
即興に惹かれる理由は何なんですか?
増 田:

自分が舞台に立つことを止めない理由をよく考えるんですが、その理由に「今」と「わたし」ってことがあります。

幼稚園ぐらいの時に、眠れなくて薄暗い部屋でぼーっとタンスの木目をながめていたら、自分が寝ている地点から視点がずっと引いていって、すると宇宙に出て地球が浮いてます。把握できない広さの外がある。誰の魂胆でこんなことになっているんだろう。その時、あれって思って。もしかしたら今、自分で考えてるつもりだけど、これはもう全部決まってる丸い世界の物語なんじゃないかと。じゃあ、今、私って思ってる、「わたし」って何、この「今」って何?ってなって。それからも時々釘付けのように同じ状態になることがありました。捉えようのないこの不安は意識に置かなくてもずっとあり、それをほうっておけませんでした。どうしてもなぜ「今」あるのか分からず捉えられない。でも「今」に触りたい、実感したい。それが即興にこだわっている理由だと思います。それで踊っていますけど、あらかじめ決まった振りをうまく踊れません。
三田村:
振りつけられたものには、あまり興味が無い?
増 田:
ずっとやだったんです。それよりも、「今」っていう体感が強いものが即興だった。
三田村:
そうですね。即興は本当のライブ、一発勝負。
増 田:
もちろん、振付のダンスでも、もう一度それを踊る時に「今」、自分が踊るってことになるんだけど…
三田村:
よりその「今」っていうのを強く意識できるのが即興だった、ということですね。

インタビューを終えて

増 田:
自分の喋ったことが文字化して帰ってくるという体験は思えば始めてのことです。質問されて考えている状況、言葉を手探りしている跡がありありと見え、日本語として妙だったり、言いそこねていたり、それなりに言えているようだったりですが、まわりくどくしている言葉を省き、足りない言葉を足したくなりました。読みながら既にそれをしていました。
簡潔にものを言うということを念頭に置いて次回に挑もうと思います。
三田村:
このような形で初対面の、しかもダンサーの方にインタビューをすることは始めてだったので、どうなるのか楽しみな反面不安もありましたが、増田さんはとても丁寧に、自分の中からことばを紡ぎだしてくれたので、とても密度の濃い時間になったと思います。ダンスという大枠についてや、作品創作の源泉についても聞けたのは今後のためにも収穫でした。次回からは実際の作品創作の過程を拝見する事となります。共同の製作者ではなく、第三者のインタビュアーという立場において、僕がこの作品にどう接することが出来るのか。良い影響を及ぼしたいという気持ちもあるのですが、あくまでこれは増田さんの作品です。深入りしすぎず、フラットな立場でシンプルにこの作品を眺めていけたらと思います。

増田美佳作品 [つくっている最中・1]

【三田村啓示→増田美佳 インタビュー (2回目) 2013年 5月23日(木)京都 出町柳周辺】
インタビュアーの三田村さんが、「式日」6回目の稽古場を見学してからのインタビュー。 作品の具体的なイメージや稽古の方法についての質問が重なっていきます。ただ、まだまだクリエイションも途上。 振付家が言葉を探し、インタビュアーが問う言葉を迷う、沈黙の時間もありました。

具体的なシーンづくりの準備

三田村:
今日が6回目の稽古ということですが、進度としてはどのくらいですか?
増 田:
現時点では、具体的なシーンを作るような稽古はしていません。モチーフのようなものは一切使わずに、思いついたことをダンサーに伝えてやってみてもらったり、ベースになる身体を作るための稽古をしています。
三田村:
今日も半分基礎稽古みたいな感じでしたか?
増 田:
前半半分はそういう時間でした。三田村さんが稽古場を見に来られたあたりからは、初めて、舞台で使ってみたいと考えているモチーフを持ち込んでみました。ダンサーには、今はそこまで考えこまず、そのモチーフからどういう動きが生まれるか、即興的に動いてもらった感じです。
三田村:
今は稽古の中で試行錯誤しながらいろんな要素を見つけていっている状態なんですね。そういえば最初のインタビューの時に、儀式の所作や様式に対して注目しているという言葉がありました。それについては今も継続していますか?
増 田:
少しそこからは離れてきています。というのは、当初作品について考えていたことの中で、舞台技術上、実現できないことがあり、最初のプランとは違うことをやらざるを得なくなったということもあります。でも、仕方がないから他のことを考えるしかない、ということではなく、こうなって良かったのかもしれない、とも思っています。
三田村:
儀式的な所作の様式から離れていかざるを得ない理由としては、当初のイメージが実現不可能になったことも大きいと。
増 田:
そうですね。始める前に思っていたのは、ダンサーをある強固な形式にはめ込みたい、ということでした。強固な形式とは、段取りや時間の制約ということです。でも稽古場で動いてもらっている内に、それはちょっと違うかもしれないという気がしてきました。
三田村:
今日の稽古でも、即興でダンサーに自由に踊ってもらっている部分がありましたけど、一方で、かなり具体的な動きやフォルムの指定もしている部分もありましたね。
増 田:
…私、してましたか?
三田村:
していた気がするのですが。(笑)
増 田:
あ、わかりました。最初のシーンの案を稽古していた時ですね。
三田村:
増田さんご自身で、細かい指示を出していらっしゃって。やっぱり自分もダンサーとして踊っている方ならではなのかなとも思ったのですが。
増 田:
あのシーンの体の状態には、しっくりくる形があったので、それはダンサーに伝えたいと思ってやっていました。
三田村:
ダンサーが登場する冒頭のシーンのイメージははっきり固まってるんですか?
増 田:
そうですね。
三田村:
といっても、今日実際にやってみて、固まったということですよね。
増 田:
そうですね、まだ半熟ですけど。(笑) あのようなシーンで始めようというのは、先ほど言った没になったプランがあった時から考えていました。

記憶の中の形や動き

三田村:
冒頭のシーンからどのように展開させようと考えていますか?
増 田:
稽古の最後に、年号を読み上げていた時がありましたが、そこにつなげようと思っています。
三田村:
ダンサーが、自分の生まれた年から1年ずつ数え上げていき、その1年ごとにそれぞれの動き・所作を作っていた場面ですね。ということは、この作品はこの先、ダンサーの人生を所作でたどっていくような展開になるのでしょうか。
増 田:
稽古場で見ている内に、私がこういう動きをしてくださいって指示をしてやってもらうことを見るより、ダンサーそれぞれの記憶や、すでに身体が経過した形とか動きってものが気になってきました。そういうものを知りたくなってきたというか。わたしの指示で動きを作っていくのではなく、記憶の中の形や動きを引き出しながらやれないかなと思うところがあって。
三田村:
ダンサー個人の今まで生きてきた記憶をもとにして?
増 田:
そうですね。
三田村:
増田さんのそういうアプローチに対して、ダンサーはどのような反応をするんでしょうか。
増 田:
やりづらさを感じていたりもすると思います。自分自身にとって、近すぎることというか。それを語ろうとすることに、抵抗感があるとは思います。
三田村:
しかも、言葉ではなく動きで語るわけですよね。
増 田:
語るといっても、具体的なストーリーを教えてほしいとは思っていません。記憶の網目の中に引っかかってる形みたいなものを取り出せないかなと考えています。その記憶がなにをあらわしているか、踊っている本人以外にとって不明瞭でも構わないので。
三田村:
「記憶の網目の中に引っかかってる形」というのは、たとえば癖とかでしょうか。
増 田:
それもあるとは思います。ただ、今のところダンサーがやってみた中で、癖のような動きはなかったかもしれません。
三田村:
「形」っていうのは何の形でもいいんでしょうか。例えば自分とは別のモノ…コップの形とかでも?
増 田:
自分とは別のものの形ではなく、自分が何かをやった時の手の形や体勢ですね。ただ、実際にダンサーが何をやっているかは聞かないようにしています。
三田村:
そういう形を自らの中から探して出して見せて、という指示はするが、それが具体的に何なのかは尋ねないと。なぜ尋ねないのでしょうか?
増 田:
個人的なことで、人に言いたくないことが形としてあらわれている場合もあると思うんですが、別にそれを聞きたいわけではないので。

ダンサーにまつわる数から動きを立ち上げる

三田村:
ダンサーが年号を言って、その年号にみちびかれるような身体の形を自分の中から抽出していく。この試みで、何を見せたいと思っていますか? たとえば、ダンサーの今までの生きてきた歴史とかなんでしょうか。
増 田:
ダンサー個人の歴史は、たぶんその動きをつなげて見ても分からないと思います。ただ、年の数だけ動きができるっていうことがおもしろいと思っていて。たとえば、32才だったら、32個の動きや形があるというような。それぞれの人生をどうこうと言うことよりは、動きを見つけ出すひとつのルールとして、年号を持ちだしてきた感じです。 今回の作品でダンスの動きを作っていく動機として、ダンサーそれぞれに関わってくる数字とか記憶っていうものを出発点にしたいと考えていて。それぞれにまつわる数が根拠になっているということから、動き始めたいような感じがあるんですよ。
三田村:
そのひとつが、生まれた年号だということですね。そういった数字を抽出することで、どういった効果や意味があるんでしょうか。
増 田:
うーん、どういう効果を狙っているかというよりも、現時点では他の事柄から動きを作るってことが考えつかないですね。
三田村:
ダンサー個人それぞれにまつわる数ということですが、年号の他にどういったものがありますか?
増 田:
年の数とか、上演時の時間、現在流れている時間ってこともあると思っています。
三田村:
年号も年齢も、生まれてから現在に至るまでに流れてきた時間についての数ですね。ただ、その数を起点にダンサーが踊ったとして、その動きの連なりが結局、どのように観客側に伝わるのか、僕の中ではまだ漠然としていて、ピンときていません。まだ稽古も初期段階なので難しいとは思いますが、増田さんの中で結果どのようになるのが理想的か、イメージはありますか?
増 田:
それぞれが動きを取りだしてくる時点では、具体的な数字や記憶に基づいているのですが、その動きをつなげていった時に、記憶や意味というところから離れていきたいと思っています。
三田村:
たとえば動きながら年号を言っていくことで、それがたとえ無意味な動きでも、年号がそこに加わることでダンサーの一連の動きに観ている側によって何らかの意味付けがされていくことがありますよね。しかし、そこから抜け出したいというのは、なぜでしょうか?  そしてそれは可能なのでしょうか。
増 田:
まず、個人史を説明したいということではないということ。説明するのではなく、ダンサーには踊ってほしいのですが、そのための動きの取り出し方が、まずダンサーそれぞれに依拠していないと嫌だと思っているんです。
三田村:
最終的には、個人史を越えたものを見たい、見せたいんですね。
増 田:
もちろんそういうことです。
三田村:
では、個人史的なものを越えて、どこへ向かうんでしょうか。
増 田:
どこへ行くか、想定しているということではありませんが、どのように「私」というものから離れられるかを考えています。それぞれの「私」というものが、もっと曖昧になっていくといいのではないかと。曖昧という言い方がふさわしいかどうかは、まだわかりませんが。

インタビューを終えて

増 田:
このインタビューが文字になって帰ってくるのを見るときには、さらに数回の稽古を重ねているので、そのぶん時間のズレがあります。なので、あのときはそういうところに可能性を求めていたけれど、現時点ではもう少し違う、違った違ったと思うところもある、ということが起きています。でも引き継がれているものもあることを記録のなかに発見します。あとまだ言い切れてない言葉があるのを、次のインタビューのとき、別の言葉にできるだろうか、したいという思いを持ちました。
三田村:
自身のスキル面の問題もあり薄々予想してはいたのですが、特に創作の初期段階でインタビューを行うことは中々難しいということです。振付家もダンサーもまだまだ質、量ともに模索中であり、行われている作業に対して明確に即座に言語化するのが難しく、勿論聞き手もまだ多くないパーツから問いを引き出すのが中々難しい(あとは単純にネタバレになる可能性もある)。そして、言語の無いダンス作品について言葉を用いてインタビューすること自体の難しさにもようやく気づいたかもしれません。例えば聞き手側が「あの動きはどういう意図なのか」ということを問いそこからやり取りが始まった場合、このように文字に起こしたとしても読み手にとってはまるで宙を掴むようにしか感じられないのではないだろうかという懸念がインタビュー中も頭の隅にありました。ただ月並みですが、実際の創作過程を見せていただくのは非常に興味深いのです。次の稽古で一体どのように進化しているのか、純粋に楽しみです。

増田美佳作品 [つくっている最中・2]

【三田村啓示→増田美佳 インタビュー (3回目) 2013年 6月17日(月)京都 出町柳周辺】
インタビューも回を重ね、振付家とインタビュアーの間で交わされる言葉がより深いところを探るようになってきました。増田さんが稽古で用いる特有の言葉なども話題にのぼり、即興で踊るということの実際について、共同作業のように二人の言葉が重ねられていきます。

自分を見ているもう一人の自分

三田村:
今日の稽古は富松悠さんがお休みでしたが、見ていて非常に楽しかったです。20分間の即興セッションが特に。じっと見ていても全然飽きませんでした。現在、進度はいかがですか?
増 田:
ラストは少し迷っているところもありますが、最初から最後までの流れはできていて、繰り返し稽古をしています。今日見てもらった即興の部分は、どういう風に意識をもてばうまくいくのか、やりながら検証しています。
三田村:
あのシーンは、完全に即興なんですか?
増 田:
時間は20分って決まっていて、最初の10分は、最初に決めた立ち位置から動かないように指示を出しています。10分経ってから空間移動を始める。決まっているのはそのふたつで、あとは即興で動いています。
三田村:
稽古場にあったホワイトボードに、「人体にできること」と書かれてあり、いろんな単語が羅列してありました。伸びる、まわる、曲がる…。あれはどういった理由で書かれていたんですか?
増 田:
今までも20分の即興セッションは何度かやっているのですが、どういう風に動いてほしいか、細かくは言っていませんでした。以前のインタビューでも話したように、自己表現としてダンスをするのではなく、できるだけ体をひとつのモノとして外側から動かしていくような意識でやってほしい、ということをベースに、その瞬間に自分が必要だと思う最低限の動きをしてほしい、それ以外の余計なことというか装飾的なことは一切省いてほしいとは伝えていました。ただ、それは観念的な言葉でもあって、実際ダンサーの動きはそれぞれが今までやってきたダンスのバックボーンから導きだされていきます。それを分断したいと思った時に、踊る以前に、人間の体にどういうことができるかを素朴に考てみよう、となりました。まずは縮むことと伸びること、筋肉の収縮で動いているということ、そういった原点から。
三田村:
増田さんがやろうとしていることは、自分の中から出てくる衝動に従って体を動かすのではなく、自分の外にもう一人の自分をたてて、そのもう一人の自分が自分の体を客体としてどのように動かしていけるかという実験、ということでしょうか。
増 田:
そうですね。

カードを切る

三田村:
ダンサーとの話の中で、ひとつひとつの動きを選んでいる状態を保ち続ける、という言葉が出ていました。
増 田:
そうですね。流れにしない、ということです。 あと、ダンサーにお願いしているのは、自分も踊っているその場にいながら、その場が今どうなっているのかを引いて見るような姿勢を、セッションの中に入れてほしいと言っています。3人が3人とも動いているのではなく、誰かが引いた目でその場を見ている。自分だけではなくダンサー3人で作らなければならない時間のために、体でカードを切っていくっていう感じです。
三田村:
カードを切っていくとは、どういう感じですか?
増 田:
今、場に必要なのはこれ、これ、次はこれっていうように、一枚一枚提示していくような体感があります。
三田村:
それぞれが場を客観的に見る視点を持って、場に奉仕するための動きを選んで出していくということが、カードを切るということでしょうか。自分が踊りつつも、客観的に見る自分をも同時に維持するというのは、非常に大変な作業だと思います。
増 田:
そうですね。客観的に見るということが、得意な人と不得意な人がいます。自分がのってくると、自分が動いていくことに集中していってしまうタイプの人もいれば、あるいはそういった相手を感じて自分の動きを控えて引いている時間が長くなってしまう人もいます。
三田村:
ダンサーが客観的になれているか否かを、振付家として判断する基準は明確にありますか?
増 田:
見ていると、良い、もしくは良くないということははっきりあるんですが、言葉にするのは難しいですね。
三田村:
ひとつひとつのダンサーの動きには細かい指定がないとのことですが、たとえば「人体にできること」のような示し方は、いつもやるんでしょうか?
増 田:
いえ、今日が初めてでした。今までは、体をモノとして扱うには体をバラバラに動かす必要がある、というように、ざっくりしたことしか伝えていませんでした。それでどこまでダンサーの自我のようなものが抑えられるだろうかと思っていたのですが、もう少しはっきりと動きの質感のようなものを渡す必要を感じ始めました。
三田村:
ダンサーの自我がない状態に見えることが理想ですか?
増 田:
言葉で説明しにくいのですが、「私」ってことが前面に出てくるような動きあるいは踊り方がある気がしていて、それを避けようとしています。ダンスが難しいのは、扱おうとする体が自分自身というところですが、そのことを意識せずに踊ってしまうと、自我が出てくるように見えるのでしょうか。踊っている自分を疑えということかもしれません。

よいリズムを生むために

三田村:
今日見た即興の20分間は、ダンサー2人が、体がまったく別の方向を向いていても、相手の出方を読もうとして無言のコミュニケーションを取っているように見えて、その緊張感が非常に面白く感じられました。
増 田:
そうですね、私もあの時間を見ているのが好きです。ただ、その緊張感は、ただ立っているままだと徐々に緩んでいきます。緩んできた時にもう一度場を引き締めるような感じで、ひとつ動きを入れる。その動きのあとの余韻が終わるまで待って、余韻がなくなったら次の動きをしてほしいと言っています。
三田村:
それが、カードを切るということですね。
増 田:
そうですね。
三田村:
確かに、そのカードを集中して選びながら、時におそるおそる、時に大胆に切っているような感じがありました。
増 田:
将棋にも似ているかもしれません。
三田村:
でも、ダンサーが3人になったら更に大変でしょうね。
増 田:
そうですね。今日はたまたま一人休みでしたが、いつもは三人でやっています。でも簡単にはうまくいかないですね。
三田村:
うまくいったかいかなかったかというのは、ダンサーにも自覚があるんでしょうか?
増 田:
どうやらあるようです。自分が踊っている時もそういう感覚はあって、うまくいっていない時は、気持ちいいリズムができてこない感じがします。
三田村:
気持ちいいリズムというのを、もう少し具体的に説明していただけますか。
増 田:
動き自体が何を示しているかはわからないけれど説得力があるように見える瞬間を、三人が的確に選ぶことができて、かつそれが繋がっていくような状態の時にいいリズムが生まれるように思います。ただ、そこになにか曖昧なこと、余計なことが入ってきた時に、全体の歯切れが悪くなってしまう。
三田村:
三人が三人とも、リズムが悪くなってしまうと。曖昧だったり余計なものが入ってくる原因は、たとえば場を客観的に見れていないということなのでしょうか。
増 田:
そうですね。引けなくなってくる時と、何かやらなきゃいけないと思って焦って動いてしまう時です。
三田村:
これからの課題を教えてください。
増 田:
ダンサー3人のよき共犯関係を築くにはどうすればいいか、考えるというか、やっていくことですね。

インタビューを終えて

増 田:
このインタビューのときから数日経ち、今は本番1週間前に差し掛かろうとしています。 読みながら自分でも引っかかりを感じるところがあり、例えば、「動き自体が何を示しているかはわからないけれど説得力があるように見える瞬間を、三人が的確に選ぶことができて…」 と言っているところがあるけれど、それを渦中の3人が一体何を基準にして選ぶのか。 説得力というのは、踊る、つまり見ながら作る3人の為すことが、その場に立ち会う観客にとっても、その瞬間その行為の必要が説明でなく感じられるということです。 困難な要求をしていると思います。でも人にはそれができると私は考えています。作るものは作られるものために作る、ということを思いながら日々過ごしています。
三田村:
事前に見せていただいた稽古(セッション)が非常に面白く、作品全体の構成も固まってきていたようなので、前回に比べて踏み込めた内容のインタビューになったと思います(ただ致し方の無いことですが、ネタバレの懸念があるやりとりについてはカットになっているのが残念ではあります)。 次回は本番直前、この作品が一体どのようなかたちに変化しているのか楽しみです。
上演作品 高木貴久恵「夢見る装置」
西岡樹里「名前のないところから」
増田美佳「式日」
日程2013年 7月6日(土) 15:00 (高木作品のみ上演+トーク)
2013年 7月6日(土) 17:15 (西岡作品のみ上演+トーク)
2013年 7月6日(土) 19:45 (増田作品のみ上演+トーク)
2013年 7月7日(日) 15:00 (ねほりはほり3本立て) ※トークなし
場所 元・立誠小学校 2階 音楽室 google map
料金 1作品のみ 500円(当日券 +300円)
3本立て 1,500円 (当日券 +300円)
上演時間 1作品のみ 30分+トークセッション30分
3本立て 90分

関連PROGRAM

ARTIST

増田美佳ますだみか

1983年京都に生まれる。銅駝美術工芸高校ファッションアート科卒。京都造形芸術大学 舞台芸術学科 舞台芸術コース卒。
主な出演作品『庭みたいなもの』演出/山下残、『天使論』演出/相模友士郎など。「インプロセッションの會」を継続的に行っている。
http://impronokai.blog94.fc2.com/
絵も描いている。http://mica-masuda.tumblr.com/

INTERVIEWER

三田村啓示みたむらけいじ

俳優、空の驛舎、C.T.T.大阪事務局、舞台芸術雑誌「ニューとまる。」編集部。 主に大阪を中心に活動。学生劇団を経て、俳優としては2005年より空の驛舎所属、外部出演も多数。またC.T.T.大阪事務局員として、創作環境の整備にも地道に取り組んでいる。
加えて近年は執筆活動も並行して行っており、明倫art(京都芸術センター発行)の演劇レビューを担当中。