Dance Fanfare Kyoto

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川那辺香乃 Listen, and… (Dance Fanfare Kyoto vol.02)

※この原稿は、2014年10月ごろ書いたものに、若干の修正を加えている。
 今は、新たに考えていることなどもあるのだが、記録としてその当時の気持ちを記しておこうと思う。

Dance Fanfare Kyotoに2012年の発足当初より関わっている。一応、「運営スタッフ」というメンバーに昨年も、そして今年も名前を掲載してもらっているのだが、いまだこの場でなにか企画を実施したことがない。
発起人のきたまりと最初から企画に関わっていた小倉由佳子さんにこの話を頂いた時、参加するかどうか正直迷った。というのも、舞台の制作から一度手を引こうとしていた時期だったからだ。

私は今、障がい者の芸術に関わる仕事をしている。また、京丹波町という京都市内から車で一時間半ほどかかる場所にある旧質美小学校で、子どもや一般の人向けのワークショップを実施している。
制作者として、アーティストが創る作品に関わることはとても魅力的ではあったのだが、開演前に受付に立っていると、大体顔を見たことのある人がいつも劇場に来ているという状況に危機感を感じずにはいられなかった。この小さなコミュニティの中でしか、作品を観てもらえていないのではないか、そのなかで「おもしろい」と言われている作品は、本当に「おもしろい」といえるのだろうかという疑問がずっとあった。
だから、私はもっと外側の、まだ舞台を見たことがない人たちを劇場に連れてくるような活動をしたくなった。そして、公演という形ではなく別の手法で、「だれか」と「舞台」をつなぐことに取り組み始めたのだった。(もちろん制作という仕事の中に、こうした部分も含まれてはいると思うが、私はよりこのことに集中して取り組みたかった。)

そんな状況の中、Dance Fanfare Kyotoというプロジェクトに中途半端に私は2年関わってきた。ななかなかミーティングにも参加できない状況が続き、他のメンバーに申し訳なく、「こんなことだったら一度離れた方がいいのではないか」と考えたこともあったのだが、なにかひっかかるものがあり、この企画に自然な形で、「こういうことがしたい」と自発的にコミットできる機会を伺いながら関わってきた。
そして、2年目。今回も企画を出さないままでDance Fanfare Kyotoを迎えてしまったのだが、きたまりがディレクションした多田淳之介氏演出の『SYMPOSION』を見たときに、私の中で抱えていた危機感や違和感、ピンとこないという原因がなんなのか、より深く掘り下げることができた。それによって、私自身がDance Fanfare Kyotoにどう取り組んでいけばいいのかという方向性が少しわかってきた。
今回は、この『SYMPOSION』を通して、私が今考えていること、考えていきたいことを書いていきたいと思う。

まず、多田氏はこの作品で「シンポジウム」を行っていたが、私は「ワークショップ」の構造とよく似ていると感じた。
「ワークショップ」なんて、いまやもうほとんどの人が知っている言葉だが、あらためて説明すると、「ワークショップ」は「講義など一方的な知識伝達のスタイルではなく、参加者が自ら参加・体験して共同で何かを学びあったり創り出したりする学びと創造のスタイル」※1のことをいう。アートだけでなく、環境問題やまちづくり、企業研修といった分野でもワークショップという手法は利用されている。

私は4年ほど前に青山学院大学と大阪大学の共同事業であるワークショップデザイナー育成プログラムを受講したのだが、そこには役者、音楽家、医師、教師、政治家、会社の人事担当者などさまざまな職種の人が集まっていてとても刺激的だった。その当時、このプログラムで出会った人達が、私が関わっていた演劇作品を見に来てくれて、日頃演劇なんて見たことないという人たちから、作品に対する意見や感想を聞くことができてとても嬉しかった。講座を受講した後、自ら立ち上げた企画で演出家やダンサーにワークショップを依頼することがあり、そこで身体をつかって表現するという面白さを参加者に体験してもらう機会をつくった。以来、作品を創り、上演しそれを観てもらうということ以外で、舞台芸術の魅力を伝えることができる1つのツールとしてワークショップの魅力をずっと感じている。

ワークショップのプログラム作りでは、基本的にきちんと「起承転結」を意識する。「全員の大きな場で体験することと、1人で感じたり、2人でペアになって体験したり、4人組で話しあったり、小グループや中グループでふりかえり分かちあう時間を適宜持ったり、グループのサイズも多様に使い分け」※2ることで、より深い話ができたり、自分自身の中から気づきが生まれ、講師や先生といった人に「教えて」もらうよりもずっと深い学びとなることがある。

『SYMPOSION』でも、いくつもの対話のスタイルを創っていた。6人から3~4人、1人対大勢、1人で考える時間、など。
また、まちづくりなど、対話を重視するワークショップでは、休憩をどのタイミングで入れるのかは結構大事にする。どういったおやつを出すのかこだわる人もいる。『SYMPOSION』では出演者の出身地のおやつをみんなに渡していたのが印象的だった。
そして、ワークショップの司会者のことを総称して「ファシリテーター」と呼ぶ。ファシリテーターには「進行促進役」「引き出し役」「そそのかし役」、あるいは「助産婦」「触媒」というたとえもよく用いられる。※3

この作品を「ワークショップ」として見たとき、「ファシリテーター」は演出家である多田氏だとすると、彼はかなりがっちりとその場をホールド(支配)していると感じた。そのホールド感に、居心地悪く感じる人もいたように思う。しかし私は、逆にがっちりとホールドされていることで、私がこの京都で舞台作品を創っている人達のコミュニティの中にいる時に感じる「ぼんやりとした不安」と対峙させられることになった。
その核心をお伝えする前に言っておく。おそらくこの「ぼんやりとした不安」を感じる状況というのは、どのコミュニティでも起こっていることだと思う。ダンスや舞台芸術という分野には限定されないし、なんとなく、薄々と感じている人もいることだろう。
多田氏はこの『SYMPOSION』であえて一定のルールの中に私たちを入れ込むことで、こうした感情が現れるという結果がどの地域で上演しても出てくると予測していたのではないだろうか。

また、『SYMPOSION』はワークショップではない。「ワークショップ」や「シンポジウム」という手法を応用している演劇作品の1つだ。そのいち作品によって、私は「ワークショップ」の本質に改めて気づかされることになった。何故今、これほどまでに「ワークショップ」という手法がさまざまな分野で使われているのか。今までの私は「ワークショップ」という場だからこそ許されている表面上の自由さと面白さにのみ捉われ、楽しんでいただけだった。この作品を観て、そのことに気づかされ、えぐられるような思いをさせられ、なんともいえないくやしさを感じている。けれど「今だから気づけたのかもしれない」という嬉しさも混じりあっている。

前置きが長くなったが、私が上演中に気づいた「ぼんやりとした不安」の正体は、どのコミュニティでも陥りやすい、他者とのコミュニケーション不全だった。
『SYMPOSION』において、観客は、最初からいち参加者としてその場に居合わせているような空間設定になっていた。出演者の席は空間の両サイドに椅子が並べられており、客席はセンターに配置されている。客席といっても椅子はなく、各々が居心地のいい場所をなんとなく探しながら座っている。照明も明るく、観客・出演者・スタッフなど、その場にいる全員がその作品をどう見ているのか、一人ひとりの表情や態度が読み取りやすい。そのため、進行の中で出てくる問いに対し、その人の関心の度合いがどれほどあるのかも容易に見てとれる。
そんな環境の中で、上演中にぐるっと周囲を見渡すと、あまり聞いてない観客が多いことがわかる。もちろん目の前で起こっている出来事に興味を持ち発言する人もいたが、聞いている人とそうでない人の差があまりにも激しい。

また、ある出演者は戦争についての問いが出された時、「私は戦争はわからないですけど」と自分でまず前提を作ってしまい、そこから発言しないようになってしまった。(これは私自身もよく言ってしまう言葉であり、この発言をした出演者を非難している訳ではない。)
これらの観客ないし出演者の反応・行動は、社会の縮図のようだと思う。どのコミュニティでも、ある問題に対し「賛成」と「反対」の人と、その状況を眺めている、あるいはまったく興味がなく容易に「わかりません」と言ってしまうグレーな人たちで成り立っている。

それはそれでいいのだが、私は『SYMPOSION』を見て、改めてはっきりと感じたことがある。それは、このグレーの人達は、「わかりません」とシャッターを閉めてしまうのが早すぎるのではないかということだった。そのことが、私に「ぼんやりとした不安」を感じさせていた。
わからないながらも一緒に考え、話すことはできるんじゃないだろうか。もう少し、その判断を待つことはできないだろうか。

もし、この「わかりません」とシャッターを下ろしてしまうことが、個人間ではなく、集団やコミュニティ間で起こる時、互いが「わからない」というだけで、つながりを断絶させてしまうこともある。さらにコミュニティ内で「わからない」が生じた時には分裂することもあり、分裂の繰り返しの果てに、私たちはどんどん小さなコミュニティをつくって、自らを孤立させてしまう。
いつの間に、人は「わからないから話す」より、「わからないから話さない」方が楽だと思ってしまったのだろう。

私は、舞台の制作から離れた後、様々な現場に足を運んだ。そこには「都市」「田舎」「高齢者」「障がい者」「子ども」「女性」など様々な小さな社会が存在していた。私たちは、利便性を追い求めるあまり、いろんなものを小さく分けすぎたのではないだろうか。社会を細分化すればするほど、『SYMPOSION』で感じたコミュニケーション不全や「ぼんやりした不安」は、大きなかたまりのようにその場に横たわっているように感じる。もはや解決の見込みがない、その問題に対しては放っておいたほうがよいと言い切られることも出てきてしまっている。
けれど、本当にそれでいいのだろうか。

たとえば京都市内から京丹波町まで車で行くとする。走っていると車窓の風景は変わっていく。都市のビル街、人がたくさん歩いていたのに、だんだん少なくなり、田畑の広がる田舎の風景になっていく。また、私たちはかつて子どもだった。いつか年を取り、なんらかの拍子で障がい者や異邦人になり得る。そして私は女性で、いつか結婚し子どもを産む(かもしれない)。「今」は一瞬で、いつも同じ状態が続くことなんてない。※4

世界は変わっていく。変わっていって当たり前なのだ。物事の見方も一方向だけじゃない、いろんな方向から見ることができる。細分化されてしまうと、その見方が制限されてしまって気づきにくいのだが、私たちはあらゆる事象と関わりあって生きている。

私は、『SYMPOSION』でそのことを気づくきっかけを与えてもらった。だから、私は1人でもやれることからはじめたいと思う。
日常生活においても、他者に対して「あんまり伝わってないな」と絶望を感じることが増えてきた。しかし、こちらがきちんと誠実に向き合っていると、なにか暖かいものが双方の間に流れることがある。また、同じような不安を感じ、なんとかしようとする人達がDance Fanfare Kyotoの運営メンバーをはじめ、様々な分野で出てきている。その人達とも、ありがたいことに巡り合う機会を頂いていて、私自身の視野もどんどん広がってきている。
こうしたヒントを手掛かりに、私は私のペースで、また、私の持つリソースを使って、これからも多くの人と出会い、小さなコミュニティをつなぎあわせていくようなことをしたいと思っている。

最後になるが、私は次回のDance Fanfare Kyotoで、「聴く」ということを意識できる取り組みをしたいと考えている。
耳をすまして、あなたの目の前にいる人のことを知ることから始める、対話のプロジェクトだ。
Dance Fanfare Kyotoだからこそ、そういった場をつくりたい。そこからダンスが生まれ、多くの人が見に来てくれて、対話が生まれ、またいい作品が生まれてくる。
「私のできる範囲」というのは、これくらいのことをいうのではないだろうか。まだわからないけれども。
もし、こうしたことに興味を持ってくださる方がいて、互いに連絡が取り合うことができたら嬉しい。

参考文献
※1~3中野民夫「ワークショップ」岩波新書、2001年。
※4内田樹「街場の共同体論」潮出版社、2014年。

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AUTHOR

川那辺香乃かわなべかの

滋賀県出身・京都在住。様々な地域での公演やアートプロジェクトに参加し、2012年頃より、京丹波町にある旧質美小学校で「423アートプロジェクト」を続けている。また、滋賀県で障害者の文化芸術活動の企画・運営にも携わっている。同志社大学大学院総合政策科学研究科SIコース修士課程(前期)在学中