2012年2月、Dance Fanfare Kyotoが始まるきっかけとなった「We dance 京都 2012」を、本番当日の制作スタッフとして手伝い、受付や場内誘導などのかたわら、いくつかのプログラムの上演に触れた。その年の秋口、「We dance 京都」の次のステップを考えていたきたまりと小倉由佳子に声をかけてもらった。
「なにかやりたい企画ある?」
その投げかけを受け、あらためて2月の記憶を辿りなおすと、取り組むべき問題としてちかちかと危険な信号がともっていたのは、「言葉」だった。
とりわけ、ダンサーや振付家がもっている言葉の非力、もしくは不在。彼/彼女らの語っていたことの輪郭のあいまいさと、彼/彼女らの作品に立ち会った時の、思考と作品の間に言葉の摩擦の起きなかったあの感じ。
一度気付くと、もう無視はできない危機だと、わたしには思われた。これ、なんとかしなきゃいかんのじゃないか。「We dance 京都 2012」終了直後にウェブ上のFORUMに投稿されていたディレクター・きたまりのテキストのひりつきが、わたしの肌にも届いた。
これは私がダンスを面白く感じない原因のひとつでもあるのですが、振付家やダンサーという身体に対しての主観が強いアーティストが、自分の主観をどのように言語化して客観性を見つけるかというのが全体の課題としてあったと思います。(中略)
身体を自身の表現手段として選んだからには、それをどう構築していくか、そのための言語や手段を明確にしていかないと、コンテンポラリーダンスの前途は多難だとかなり冷静に感じております。そして、主観と客観の曖昧さ(なんとなく)の恐さというのを、非常に感じます。
http://wedance-kyoto.blogspot.jp/2012/03/blog-post.html
わたしは舞台の作品に触れる時、演劇やダンスといったジャンルの別を問わず、“作り手が、どんなもの・ことを見たくて/考えたくて/したくて/描きたくて、その上演の時間が費やされているのか”ということに関心が向かう。そしてその作り手の欲望を練り、支え、思想を組み立て、作品というかたちに築くのは、創作過程においてつぎこまれる「言葉」の担う力が大きいはずだと思っている。
貧しく痩せた言葉から豊穣な作品は生まれない。それを逆に考える。作り手自身が持っている言葉のパフォーマンスが高いということは、刺激的な作品を生み出せる可能性もまた、豊かだ。…本当は、こんなに単純な方程式ではないということもわかってはいるけれども、まずはここから始めることにした。
パフォーマンスの向上にはなにが必要か。それは、稽古である。言葉も、身体と同じで、ほったらかして技術が上がるわけはなく、準備運動も筋トレも試行錯誤も他流試合も要る。
よし、言葉をトレーニングする企画にしよう。とはいえ、作品づくりという実践をともなわなければ、ただいたずらに言葉をもてあそぶだけになってしまうから、きちんと板の上でかたちを見せよう。企画の中で上演の機会を必ず設定することに決めた。
一方、言葉は使い方を間違えると危険だ。言葉は、想像力を広げたりひっくり返したりねじらせたりする豊かな効能を発揮することもあれば、想像力をひとつのフレームにとどまらせ、息苦しくさせることもある。作り手がひとりでもんもんと悩んでいても、言葉はむしろ彼もしくは彼女を縛りつけ、狭い視野に閉じこめてしまう。この、どん底に向かう螺旋には陥りたくない。
では、他人にツッコんでもらったらいいのではないか。たとえば、創作のプロセスの中に何度か、作り手と話をするだけの人を投げ込んでみたら。その人は、ダンサーでもなければ振付家でもない、スタッフでもない。内側ではなく、作品の外側から問いかけるインタビュアー。
そんな発想から、「ねほりはほり」という企画は生まれた。
《ねほりはほりのルール》
・制作する作品の内容について、企画側からのリクエストはない。上演は、作品の途中段階でも構わない。
・出演者は、参加振付家の作品に出演したことのない人を相談しながらコーディネートする。
・インタビューは《つくる前(=稽古開始前)》《つくっている途中(=稽古途中)》《上演する間際》に行う。《つくっている途中》以降、インタビュアーは稽古に立ち会ってからインタビューを行う。
・インタビューは1対1、1回あたり1時間きっちり録音する。企画者が同席するが、インタビュー中にいっさい口は出さない。
・インタビューは文字起こし・編集してウェブ上に公開する。
・上演後、観客の感想をうけたトークセッションを行う。
※vol.1参加者
振付家:高木貴久恵、西岡樹里、増田美佳
インタビュアー:高嶋慈、川那辺香乃、三田村啓示
vol.2参加者
振付家:佐藤健大郎、松尾恵美
インタビュアー:岡崎大輔、高嶋慈
2年で計5組の対話のすべてに立ち会った。もちろん、5組とも個別にはそれぞれ違う作品、違う経験について語っているのだけれども、共通していたことも、いくつかある。
たとえば、おしなべて初期のインタビューは意気揚々と自信を持った語り口なのに、後期に至ると、沈黙が増え言葉もゆきつもどりつする…そんな創作過程の“あるある”といったこと。それぐらいは、かえりみればちょっと笑えてしまえるようなことだけれども、それでは済まされないこともあった。
それは、言い方に差異はあれど「厳密なムーブメントの振付に興味がない」「感情や物語に興味がない」と振付家が口にすること。しかし、その「興味がない」対象への具体的な例示があまりなされなかったこと。
「なぜ興味がないのか」を語る言葉が少なかったこと。ここに引っかかっている。常に仮想敵の範疇を出ない「興味のなさ」は、無責任な関心のなさではないのか? という思いがよぎる。
そしてまた、自分以外の作家・作品や、他の表現領域への言及が非常に少なかったことも、引っかかった。
これがもし、わたしの勝手な印象や、参加振付家だけの問題にとどまるものでなかったとしたら、と考える。開かれるべき想像力が、閉じているのではないか。
だとすれば、それをこじ開ける必要がある。その方法は、やはり私には、対話をもっとより深いものにして、言葉を尽くすことのように思われる。嫌になるほど。いや、嫌になったほうがいい。嫌になって捨てたいものがあれば捨てればいい。嫌になっても譲れないものの輪郭を、もっと捉えないといけない。
とはいえ、そもそも、このねほりはほりという企画は(もちろん、上演それぞれへの評価はあるとしても)上演自体を成果と考えない。再三になるが、わたしの危機感は言葉にある。言葉を扱う筋力は、そんなにインスタントに成長を見せるものではない。だからこの企画は非常に地味で、速効性がなくて、そもそもやった意味があるのかないのか、参加した振付家たちのこれからを注視するしか、検証できない。
去年も今年も、フィードバックとして、振付家とインタビュアーひとりひとりに会って企画についての振り返りの話をする機会を設けている。そこでは、ねほりはほりに参加したことをポジティブにとらえ、得られた広がりを次なる活動に具体的につなげていこうという声を聞くことができ、ひとまずの手ごたえを感じて胸をなでおろすけれども、いやしかし、意地悪くもわたしが問わなくてはならないのは、そのポジティブな声が、本当に口だけのことではないのか、ということである。「口だけではなんとでも言える」ような言葉しか交わせなかったのであれば、なんのことはない、ねほりはほりはただの大失敗だ。
ねほりはほりへの応答は、おそらく遅れてやってくる。せっかちな自分をいさめながら、耳を澄まして待っている。
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AUTHOR
和田ながらわだながら
京都造形芸術大学映像・舞台芸術学科卒業、同大学大学院芸術研究科修士課程修了。2011年2月に自身のユニット「したため」を立ち上げ、京都を拠点に演出家として活動を始める。また、制作スタッフとしてもダンスや演劇などさまざまな企画に関わる。2013年よりDance Fanfare Kyotoの運営に携わる。