私は幸いなことに、We Dance Kyotoも含めると、きたまりさんが中心となって実施されたこの企画、Dance Fanfare Kyoto(以下、DFK)にすべて参加者として関わった。きたまりと主催者側のみなさんに心から感謝を申し上げたい。
私が演出した『女3人集まるとそういうことになる』は、きたまりさんから「無言劇」というオーダーをもらっていたので、それに従った、という作品である。私は2000年あたりからじわじわとコンテンポラリーダンスの鑑賞やワークショップへの参加を始めた。俳優の所作に対するアドバイスをするのに、良い言葉を持ち合わせていなかったからだ。そういった経験の積み重ねが結実したのが『女3人〜』だったように思う。いかにも台詞を喋り出しそうな、あるいはもう喋ってるんじゃないかと勘違いさせる佇まいと、今にも踊り出すんじゃないかと思わせる動きを、喋る前に、あるいは踊る前に、お互いの方にわざと踏み外させる、という演出をした。喋ってもいなければ踊ってもいない、中途半端な作品である。でも、私はそういう資質の創作者なので、出来にはとても納得している。
さて、ここからはDFKから話を始めつつ、話を積極的に逸らしていきたい。私はDFKに関わる前からダンス関係者との交流はいろいろあったが、自分よりも10〜20歳年下の若いダンサーと多く関わったのは、この機会が初めてだった。私は彼らを見ていて、大変だなぁ、と思った。私がコンテンポラリーダンスを観始めた頃と言えば、シーン全体が注目され、盛り上がっているような状況だったので、良い意味でやりたい放題だったように思う。後のスターから一発屋までが、失敗を恐れずにアイデアをどんどん試みていた。だから鑑賞者としての私はわけのわからない貴重な上演にたくさん出会えた。ところが今は、そういった先人たちがそれぞれの道を力を尽くして極めいったが故に、後進に対してたくさんの道を踏み固めてあげてしまった節がある。こういうダンスを踊りたかったらこういうふうに、ああいう振付をしたかったらああいう風に、といった具合に、多くのことが既に明らかになり過ぎている。だから、評価の言葉として「上手い」「下手」が頻繁に使われるようになった。例えば「コンセプトが上手い」、とか、構成が「下手だ」とかいった具合にである。
「まったく書かれなかったものを読む」。
この読み方が最古の読み方である。
つまりそれは、すべての言語以前の読み方であり、
内臓から、星座から、舞踊から読みとることにほかならない。
これはベンヤミンの『模倣の能力について』にある文章だそうだ。「だそうだ」というのは、私は所謂botから引用しているからである。前後がどういう文章で、どういったことを示しているのかを正確には知らない。ただ、ここだけ読んで気に入ったので、引用させてもらっている。…つまり、舞踊は言語以前のものなのだ。事象の帰結であると同時に、言葉が生まれるきっかけなのだ。だから、上手い下手で言い終えられてしまっては困る、という態度を鮮明にしたダンス作品を創らなければならない。なぜならば、そうしないとベンヤミンが言うところの舞踊は成立しないからである。
今さらだが、もっと私は会話をしたかった。批評ではない。会話だ。沈黙を恐れずに、会話をしたかった。私は会話が下手なので、ついつい逃げてしまうのだが、それでも会話をしたかった。だから今後は、もっと話そう。どうでもいいことも含め、たくさん話そう。注意深く話さなければ、情報処理が簡単な「上手い」作品が多くの場を占め、結果的に本当の舞踊の居場所がなくなってしまう。
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AUTHOR
筒井潤(dracom)つついじゅん
公演芸術集団dracomのリーダー。演出家、劇作家、俳優。2007年に京都芸術センター舞台芸術賞受賞。ダンス作品の演出やシニア劇団の指導、山下残振付作品やKIKIKIKIKIKI、マレビトの会、維新派などに出演。また、主に舞台作品の感想をシェアする茶話会「ざろんさろん」の活動もしている。2014年よりセゾン文化財団セゾン・フェロー。
http://dracom-pag.org/