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インタビュー山本和馬作品 ≪つくっている最中≫ PROGRAM03 ねほりはほり >> PROGRAM >> TOPPAGE

筒井さんが山本さんの稽古場を訪問した数日後におこなったインタビュー。稽古で実際におこなわれている作業を発端に、話題はどんどんディープになってゆき、語る言葉も、短い応酬から息の長いストロークに変化していきました。

筒井
今日は前回のように次々質問するというよりは、いろいろ振り返りつつ、考えながらしゃべっていくかと思います。先日、Dance Boxでの稽古に立ち会いましたが、あれは何回目の稽古だったんですか?
山本
7回目ですね。本番までの稽古の数が20回前後なので、折り返し直前ですね。
筒井
手応えはどうですか?
山本
今のところ、全然ナーバスじゃないですね。クリエーションも楽しい。ダンサーの2人も、こちらが提示することを素直にやろうとしてくれる。やろうして、できない時もあるけれど、そこから発見できることもその都度あって。作品全体としてはまだ出来ていないし、手応えを感じられる段階ではないんですけど、クリエーションの充実感はすごくありますね。
筒井
僕が稽古を見ていた印象からも、それが伝わってきました。年齢も近いんですよね。みんな仲が良いなあと思いました。最初からそういう関係を作れていたんでしょうか?
山本
最初は3人それぞれ緊張もありましたけど、慣れてきたらいい雰囲気になってきました。稽古でやっている内容も、まだそこまで神経をぎりぎり使うということでもないですしね。ほぼ即興でやってみて、ダンサーがやってくれたことへのレスポンスでクリエーションを進めるようにしています。キャッチボールするような感覚ですね。
筒井
その作り方は、ダンサーの二人が作品に積極的に関わろうとしているからこそ、でもありますね。高校、大学と続けていた創作ダンスの時期には、そういう作り方はしていなかったんじゃないかと予想しているんですが、実際はどうなんですか。
山本
ないですね。感覚が常に更新されていっているので、今振り返ってもあんまりその時のことを覚えていないっていうのもありますけど…。
筒井
覚えてないんだ(笑)。キャッチボール的な作り方は、普段からそうやろうと意識しているんですか?
山本
一緒にやるダンサーによっても変わるとは思うんですけど。ダンス留学に参加していた時のことで、1月にショーイング、3月に成果上演があるんですけど、1月は振付でがんがんやっていたんです。でもそれで出来た作品を見たら、確かにダンサーたちがそこにはいるのだけど、ダンサーが自ら踊っている感じがしなかった。匿名性をすごく感じたのかな。このダンサーたちだから、成立した。と僕自身も言えなかった。だから、ショーイングを終えてから作り方を変えたんです。ダンサーから出てきたものを僕がいじっていく、さらに出てきたものを転がしていく…その往復で少しずつ進めていくように。それからまだ作品を多く作っているわけではないですが、最近はそういう作り方がいいなって思っています。
筒井
前回のインタビューで、最初にダンサーの構成を考えた時、女性が多めで男性も入っている、というオーダーがありましたよね。その主な理由として、絵が作りやすい、ということがあったんだと思うんです。そして、今おっしゃっていたのは、出演者がその人でなくてもいいようなものは作りたくないと。絵が作りやすいということと、ダンサーがその人である必要性っていうのは、相反しているようにも思えます。僕も演劇を作っていて時々感じることがあるんですが、その人の良さと全体の絵がかみ合わない難しさはありませんか?
山本
そもそも、ダンスによって出てくるらしさっていうのはなんなのか。たとえば声を出して話してみたりすると、そのしゃべり方とか佇まいで自然と出てくるのかもしれないけれど、ダンスって最初は誰かから教わったりするものでもある。その影響があってその人の踊りのスタイルができていくとなると、ダンスの中にその人らしさがどこまであるのか、難しい。だから、ダンスというよりも、身体を使っている時に不意に出てしまう反射とかに可能性がないかなと探っています。たとえば、すごいスピードで自分に向かってくるものがあった時に一瞬でどう身構えるか、というような反射的な反応。
筒井
その反射的に出てくるなにかっていうのが、果たしてダンスを通して出てきたものと言えるのか、難しい問題ですね。作品として、絵を作るということと、ダンスっていうことは、近いイメージでしょうか。それともまた別の問題ですか?
山本
別だと思いますね。絵を作るっていうのは、構成の作業だなと。ダンスそのものともちろん分かちがたいものではあるけれど。ちなみに筒井さんはいつも自分の作品で自分をクレジットする時、どうしているんですか?
筒井
僕はもうざっくり、演出とします。時々、自分が書いたわけではないテキストを扱う場合に、そのテキストをそのままやるなら原作のクレジットだけを加えて、潤色とかをする場合は自分を演出・構成とします。だから、僕にとっては上演の絵と時間を作るっていうことが演出の作業、テキストに関することは構成、としている感覚です。
筒井
稽古を見た時のことをうかがおうと思います。最初にやっていた脱力のワークって、いつも稽古のはじめにやるメニューなんですか?
山本
あれをやったのは3回目か、4回目ぐらいかな? あの日は遠藤くんが少し遅れてきていたけど、彼がいたら彼も一緒にやっていました。
筒井
ダンサーと一緒に身体を動かすのはいつもやるんですか?
山本
そうですね。その日の稽古で試したいことに近づける身体に持っていこうと思って、やることを選んでいます。筒井さんがいらっしゃった稽古の時は、脱力した状態から動きに発展していくような内容をやりたくて、そのためにあのワークをやってました。
筒井
僕は、あれが準備体操だと思ってぼんやり見ていたんですよね。そうしたら、どういうタイミングで身体に力を入れたり抜いたりするかっていうことに発展していって、その流れのまま振付というか、作品に反映されていくような動きが引っ張り出されてきたのがすごくおもしろかった。あれは、やりながら思いついてこれでいこうと思えたのか、それとも事前にこういう流れで進めていこうというリハーサルの構成がすでにあったのか、どちらでしょう?
山本
どちらもありますね。キャッチボールなので、最初の一発目は僕が投げるけれど、その後はやりとりの中で進んでいく。
筒井
フォルムが事前にイメージされていてそれを実行するのではなくて、たとえば力を入れたり抜いたりすることから生まれる動きから作られていくような、そういう作り方を山本さんがするんだなと思って見ていたんですけど、次に取りかかっていたテキストを扱っている部分は、また違うやりかたで作られているように感じました。
山本
そうですね、あそこは別の作り方をしています。
筒井
まだ作品の中でどう使われるかは分からないにしても、あのテキストのシークエンスは、どういう過程を経てあの形になっていったんでしょう?
山本
僕は、クリエーションを始める前に文章を書くんです。リハーサルを重ねていくと、どんどん新しい要素が出てきて、前には進んでいくんだけれど最初に描いていたものからだんだん逸れていく。そのズレに対して、最初はこうだった、ということを振りかえることができるように、作りだそうと思ったきっかけとかを文章として作っておく。その文章はまるごと出演者にも渡すんです。それに対して出演者個人から言葉で応答してもらったり身体で返してくれたものを組み合わせていく中で、新しいパーツを作っていったり。稽古で見ていただいたのは、その途中の状態ですね。
筒井
山本さんの文章に対して出演者からのレスポンスがあって、そのやりとりが展開していくと。でも、そうやって出演者が関わることで、山本さんの当初の想像からはズレていかざるをえないですよね。そのズレに対しては抗わないんですか?
山本
抗わないですね。テキスト自体もおそらくこれから増えていきます。テキストはその都度更新することもできるし、書いた時点を見なおして戻ってくることもできるから、ズレはあまり気にしません。
筒井
なるほど。脱力の延長で動きを作るように、いわば身体と対話しながら作っていくことと、文章と関わりながら作っていくこと、このふたつは山本さんの中でどういう関係があるんでしょうか。
山本
僕の中では繋がっていますね。
筒井
その二通りの方法が繋がっているということを、出演者は共有しているんでしょうか?
山本
いや、僕が投げかけているだけなので、わからないと思います。僕の中ではテキストの編集の感覚もあるから両方の作業が繋がっているけれど、ダンサーとしては、なんでいきなり脱力が出てきたんだろうというような。僕自身もそこは言葉で説明していないですね。
筒井
稽古を見ていてあらためて引っかかったのが、山本さんのダンスの出自である、創作ダンスです。創作ダンスって、これ僕の勝手なイメージですけど、表象だと思うんですよ。知覚したものや経験したものを一度心に納めて、心の中にあらわれるものを具体化して作品にしていくような。稽古で見ていた時も、山本さんの表現をそういう表象的なものに思える印象があった。テーマが愛だとすれば、山本さんが今まで経験や体験してきたこと、あるいは読んだり見たりしたものから愛を感じる表象を出しているように感じたんです。でも一方で、先ほど話題になっていた脱力から展開させていくような、身体への興味から生まれた動きがそこに加わってくる時に、また違う見え方が出てくる。
もともと僕、ダンスに関して疑問に思うことがあったんですよ。たとえばバレエは、登場人物とかの心の中にあらわれた感情を身体で表現するんだろうなって思っていた。つまり、表象的な表現だと思っていた。一方で、僕が初めてコンテンポラリーダンスに触れた時、たとえばリズムにのらないとか、意味から離れていくようなものとしてコンテンポラリーダンスの表現を捉えていた。もちろん、僕個人の知識の範囲で狭義ではあるんですけど、そういった前提をもってみた時に、コンテンポラリーダンスの中で作り手の心の内のイメージみたいなものがあらわれてきた時に、「あれ? 大丈夫?」って思っちゃう。せっかく遠くまできたつもりなのに、またバレエとかに戻ってやしないだろうかって。 でも、山本さんのクリエイションの過程を考えると、無理やり表象を意味づけしようとするんじゃなくて、身体を使って見えてきた動きもあわせて構成を工夫することによって、山本さんがイメージしているものに近付いていっている感触があったんですね。表象の作品化であったとしても、いろんな手立てがあるんだなと腑に落ちた。……あれ、僕が一人でしゃべってますね(笑)。
山本
いつ質問を投げかけられるか身構えて待ってました(笑)。
筒井
ちょっと考え込んじゃいました。まあでも、ある種の危険性をはらんでいる気もしているんです。結局やっていることはバレエと同じなんじゃないか、っていうことになってしまいかねない。たとえば、愛っていうテーマに関しても、僕はインタビューを通じてそれが男女の間に起こる愛に限らないということを知っているけれど、そういった情報がなければ、やっぱりシンプルな男女のデュオは男女の愛として受けとめられる可能性は高くなりますよね。甘ったるい恋愛を見ているようだ、というような批評が出てきたとしたら、どう対応しますか?
山本
まだクリエイションの途中段階ですけど、もし今の状態がそのまま作品に出たらそういうコメントもくるかもしれませんね。でも、それってどうしようもないかなって思う。弁解するのも違う。ダンスって抽象的なものだし、見ている人がどう捉えるかにほぼ委ねられているような世界じゃないですか。だから、どういう捉えられ方をしてもどうしようもないけど、自分が作品として提示する以上は、自分の中に確信はないとだめですよね。もちろん、その確信を持っている部分が多くの人からは見えないってこともあると思う。だからって100人中100人がこう見るだろう、というようなことを意識して作ろうとは思わないけど、僕が提示していることがたとえば100人中1人に伝わるぐらい、少ない人にしかつながらないものだったとしても、アーティストなのだとしたら確信を持って発信する立場だと思う。全然おもんなかったわとかって言われることもありますけど、それはその人の目線だし、それにも応えていく一方で、僕の中には具体的なものがあって、それをダンスっていう具体的じゃないもので出している、そういう活動だから。発信して、だめだったらまた出直す。そういう繰り返しだと思うから。
山本和馬  やまもとかずま

振付家・ダンサー。1990年、新潟県生まれ。高校生の時にダンスに出会う。大学時代は岡山県を中心に活動し、国内外で主にソロの作品を発表。NPO法人DANCEBOX主催「国内ダンス留学@神戸」を機に神戸へ移住。現在は関西を中心にフリーで活動中。ダンサーとして三浦宏之の作品に参加。横浜ダンスコレクションEXⅡ2014ファイナリスト。
(撮影:小椋善文)

筒井潤(dracom)  つついじゅん

公演芸術集団dracomのリーダー。演出家、劇作家、俳優。2007年に京都芸術センター舞台芸術賞受賞。ダンス作品の演出やシニア劇団の指導、山下残振付作品やKIKIKIKIKIKI、マレビトの会、維新派などに出演。また、主に舞台作品の感想をシェアする茶話会「ざろんさろん」の活動もしている。2014年よりセゾン文化財団セゾン・フェロー。
http://dracom-pag.org/

ねほりはほり
上演作品 山本和馬「愛してしまうたびに。」・佐藤有華「Cardinal LineⅡ−1」
日程5月30日(土) 17:00 31日(日) 14:00
※2作品連続上演、30日(土)は終演後にトークセッションあり
場所 2階 音楽室 google map
料金 1,700円(当日券 +300円)
上演時間 30分+30分
予約
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