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インタビュー佐藤有華作品 ≪つくっている最中≫ PROGRAM03 ねほりはほり >> PROGRAM >> TOPPAGE

インタビュアーの高嶋さんが佐藤さんの稽古場を見学してからインタビューを行いました。
稽古の中で行われた動きを、佐藤さんがどのように見ていて、高嶋さんはどのように感じていたのか。
佐藤さん特有の稽古での言い回しなども、ひとつずつ解剖されていきます。

高嶋
稽古前半は、1つの単純な動きを、ダンサーひとりずつ、かなりしつこくやっていましたね。その同じ動きをもとに、ふたつの感覚の違いというのを試していた。ひとつめは周りの音を聞きながら。ふたつめは自分の身体の音を聞きながら。意識の持ち方で身体の動きがどう変わるかっていうことの試みだったと思うんですが、私には、すごく変わったなって見えた瞬間と、あまり変わらないという瞬間があったように感じられました。でも、佐藤さんは毎回違うというようにコメントされてましたね。その違いは具体的にどういうものなんでしょう?
佐藤
そもそも、そのふたつの意識の違いそのものがやりたいというわけではないんです。シンプルな動きをやろうとした時に、ただ動かすだけだと身体が粗いんですね。走っているのと同じような運動に見えてしまう。そうではなくて、動くことによって身体の本質的な音みたいなものが聴こえてきたらいいなって思っていて、そのための実験としてやっています。実際は毎回やるごとにすごく大きく変化が生まれているわけではない。でも、自分が近づこうとしていることは、とても微妙なところにあるから、わずかな変化もひとつひとつ拾っていきたいんです。意識するところを変えたら見え方がどう変わったか、ということを、ダンサーと何度も意思疎通をはかることで、ダンサーの引出しが増えて、選択することができるようになるのではないかと思うんです。それから、ひとつひとつの変化は些細でも、たくさん重なっていくとすごく大きな違いになっていく。その小さなことを溜めていくような作業をやっている気がします。
高嶋
身体の音を出すっていうのは、たとえば関節をバキバキ鳴らして物理的に音を出すということではなくて、比喩的な音ということですよね。音って目に見えない。佐藤さんが振付家として求めていることは、フォルムではないんだろうと思います。音という聴覚の比喩で表現されているのがおもしろいですね。この比喩についてもうちょっと知りたいんですが、違う表現で言い換えるとしたらなんでしょう。
佐藤
身体の音じゃなかったら…うーん、なにか別の言葉が見つかるといいんですけど。ダンサーに伝える時にも。
高嶋
音楽じゃなくて、音。音楽というとメロディーがあって流れがあって、つかまえやすいですけど、音はまた違いますよね。
佐藤
そうですね…。少し話は逸れますけど、先日、春秋座で観た笠井叡さんの『今晩は荒れ模様』について、「踊りが振付に見えなくて、ダンサー自身がそのまま出ているように感じた」という感想を高嶋さんから聞きました。そういうふうに、身体が勝手にというか、必然性の中で動いていく。あの笠井さんの作品では、身体がまるごとひとつの全体として、身体自体がどう動きたいか欲求を持っているような印象がありました。それと比べると自分の今回の作品は、身体をまるごとひとつとして捉える前に、手や足といった細分化されたパーツがそれぞれ欲求を持っていて、それが一つの身体と言う入れ物の中にいる状態が見たい、と思っています。それを音と呼んでいるというか…。パーツひとつずつが空間や自分自身とコミュニケーションをとる、会話する。
高嶋
稽古を見ていて印象的だったのは、ある人がやった意識の仕方を別の人が真似しようとしても、しっくりこなくて、あまりおもしろくない。でも、別の意識を持とうとすると、よくなる。同じ言葉で動機付けしてもうまくいく人といかない人がいるというのはおもしろかったですね。作品として整えていく時に、たとえばダンサーが同じ動きをするけど3人がそれぞれ違う大きさや高さの音を出して和音のように分散させるのか、あるいは動きはバラバラなことをしているようだけれど音は同じ質感に合わせてチューニングしていくのか、どういった方向でやっていくのでしょう?
佐藤
そこが問題なんです。もともと土台にある『Cardinal Line』のコンセプトとしては、バラバラな身体がハーモニーになったり、違う音を出しているはずなのに波形が一緒で同じように聴こえるようなことがおもしろい、というところにあるんです。同じドの音程でも、楽器が違えば違う音として聴こえるようなおもしろさ。でも、今回の出演者と対面してみると、男女も混ざっているし、身体が全然違うんですよね。今まで同じ大学の中でほぼ同い年の、ダンスに興味を持っている女性と一緒にやっていた中で感じていた個々の違いとは比べものにならないぐらい。それに直面した時に、たとえば違う楽器をうまい具合に配置や動きをチョイスして同じ風に見えるようにすることはできるかもしれないけれど、それになんの意味があるんだろうと考えたんです。自分のやりたいことが、その先にどういう発展をしていくのか、というのを今は探っている段階ですね。
高嶋
一般的にダンスの振付というのは身体の動きをつけることだと思われていますが、今日の稽古を見ていると、実は身体でなく意識を振り付けることなんじゃないか、と感じました。足をこの高さまで上げてくださいというような物理的な指示ではなく、意識の方にアプローチしていく。
佐藤
そもそも、動きを具現化していくのを自分から決めてしまうこと、その空間での時間を生きるのはそのダンサー自身の身体なのに、私の言葉を渡してしゃべれっていうことに違和感があるんですね。英語を練習して上達するようにいずれぺらぺらしゃべれるようになるのかもしれないけど、それぞれの身体はもともと母国語を持っていて、その身体がその身体でしかしゃべれない言葉を持っているって考えた時に、この作品の言葉は英語だから強制的に全員英語をしゃべってねっていう筋の通し方もあるんだろうけど、それぞれの母国語をしゃべりながらもコミュニケーションをとれるような方法がないかなって考えています。
高嶋
その身体が持っている母国語というのは、なぜ人によって違ってくるんでしょうか? 体格や性別、ダンスの経歴、癖などいろいろ要素はあると思うんですが、どのあたりに大きく違いを感じますか。
佐藤
おそらくひとつには、身体のバランスがあります。身長とか癖といった、物理的な情報。今までの生活や環境といった外的なことによって形成されたことが具現化されているようなものたちです。 もうひとつには、その身体がもともと持っている、土台の部分というか。たとえば、さびしがり屋とか元気で明るい人とか、そういった性質っていうのは、全員がすべての成分を持っている上でそれぞれのパーセンテージに差があるっていう、バランスの問題だと思うんですよ。その成分を全部剥いていった時に、その成分が乗っかっていたその人の土台があるんじゃないかなと、興味を持っていて。そこからは、今受け取っているものとは違う、単純に言葉では説明できないようなものを受け取れるんじゃないかと思っているんです。 今話をしていて気付きましたが、自分が稽古でやっていることは、身体の動きから出てくるその人らしさを逃れようとする一方で、その人にしかない母国語のようなものを聞こうとしているっていう、ある意味矛盾したことなのかもしれません。
高嶋
佐藤さんの作業が身体のフォルムへの振付ではなくて意識への振付であると考えた時に、出演者がダンサーである必然性はどのくらいあるんでしょう? 可動域の広さや柔軟性が必須というわけでもないですよね。ダンサーではない、ふだん身体にあまり意識をはらっていない人ではできないんでしょうか。
佐藤
人は日々無意識に身体を動かして生活しているじゃないですか。無意識であるということに気づくというのは本当に難しい。その、気付きにくいことに気付く柔軟さがあるということは必要だと思っています。ダンサーっていうのは、踊りに自分なりの価値や魅力を感じている人たちで、身体や空間に対する感覚の目を持っていると思うんですね。今の稽古でも、見ていて分かりづらいとは思うんですが、私が投げかけた言葉に対してかなりダイレクトに影響を受けて変化しているんです。でも、そもそも存在自体を認知出来なかったら、はじまる事すら出来ないと思うんですね。
高嶋
稽古の後半でやっていたワークは、私にも変化がかなり感じられておもしろかったですね。3人が三角形をつくって向き合って座って、いくつかの動きを元にそれぞれがバリエーションを出していく。最初は他の人の気配や周りを意識しながらやっていて、その時は見ていてすごく心地よかったというか。バラバラなんだけれども、3人が共有しているものがあって、空間に一緒になじんで呼吸している感じがしたんですね。その次に、周りを遮断してください、という佐藤さんからの注文がありました。そうするとまったく印象が変わって。さっきの繋がりはなんだったんだっていうくらいに、個々がバラバラで空間にいたように感じられました。それに対する佐藤さんの感想もまたおもしろくて、最初は水の入ったプールに3人が入ってやっているように見えたとおっしゃっていた。つまり、1人が水しぶきを起こしたら他の人が影響を受けるということですよね。そして、周りへの意識を遮断した時は、水が抜けてしまったプールの中のように思えたと。水があるっていう捉え方と、それが満たされているのと空っぽの状態がこんなに違うんだというのが興味深かったんですね。
佐藤
空間がプールというか、水槽だとして、その中に水があるっていう状態が今日の稽古だったとすると、その水を霧にしたり、風にしたり、あるいは粘土だったり、そうやって身体によって空間の中身を変えていくということにも興味を持っています。空間をそうやって変えていくためには、ただ身体の形を振りつけても意味がなかったから、意識を変える、意識を振り付けるという方法になっていっているんじゃないかな。
高嶋
空間っていう言葉が出てきましたが、稽古の中で何回も「空間にはまる」っていう言い方をされてましたよね。どういうことを言いたいのかわかりにくかったんですが、ダンサーはあまり聞き返したりしていなかった。稽古の中ではよく使っている言い方なんでしょうか?
佐藤
初日からずっと使ってますね。でもやっぱり言葉だけ聞いても分からないので、わたしが言う「はまる」っていうことがどんな作業のことかを共通言語にするために必死に稽古しました。
高嶋
さっき言っていたような、水槽に水が満たされている状態を共有するということ?
佐藤
そうですね。でも、それを水とか霧と言わずに、「はまる」って言っています。みんな水の中にいるっていうイメージで踊ることはできるんですよね。それも面白いけど、今回やりたいことは、ここにはないものを頭の中でイメージして作り上げて具現化しようとすることじゃなくて、逆に、ここにあるのに見えないものを見る、それを身体で具現化するということ。 日常に空間はありふれているけど、それが自然だから、私たちは普段ほとんど空間のことを見ていない。それは、空間の中にいるといえばいるけれど、空間を存在させていないような状態だと思うんです。じゃあ、その空間を存在として認識するっていうのはどういうことなのか。その空間にほころびのようなツボを見つけてそこに身体をねじ込んでいくような作業をしつづけた時に行きつく場所があって、その時にようやく自分も含めたその空間と時間があるんじゃないかって思って、それを空間にはまるっていう言い方をしていて……うーん、全然わからないですよね。なんて言ったらいいのか……。
高嶋
ダンサーを見ていて、いまはまっている、はまってないっていう違いが確実にあるんですか?
佐藤
ありますね。踊っている方にも確実にあります。でも言葉にしようとすると、なんとも表現できないというか…。でも、このことをどう感じられるのか、それを模索しているのが『Cardinal Line』ですね。
高嶋
卒業制作の時も、空間に対して同じ関心を持っていたんですか?
佐藤
そうです。卒業制作の時も、空間の時間をどう流していけるのかをやっていました。見ている人と時間を共有するって言うことが自分の軸になっているんですけど、ただダンサーがここに立っているだけじゃ、時間を共有したことにはならないんじゃないか。空間自体の時間を流すために必要な作業があると思っています。卒業制作の時は、少し消化不良な感じがあって、もっと先が見たくなって今回はそのコンセプトを引き継いでいます。同じく継続している『Cardinal Line』っていうタイトルは、一本の線と四本の手足、つまり身体の基本的な線のことなんですが、タイトルによってあまり意味づけをせず、フラットな状態で見てほしいという主張でもあります。
佐藤有華  さとうありは

1992年生まれ、宮城県出身。幼少よりクラシックバレエを習う。2015年京都造形芸術大学舞台芸術学科演技演出コース、首席卒業。卒業制作『Cardinal Line』にて学長賞を受賞。現在、フェルデンクライス・メソッドの資格取得のため勉強中。

高嶋慈  たかしまめぐみ

美術批評。京都大学大学院博士課程。「明倫art」(2011~13年)、批評誌「ART CRITIQUE」、小劇場レビューマガジン「ワンダーランド」などの媒体や展覧会カタログにて、現代美術や舞台芸術に関するレビューや評論を執筆。企画した展覧会に、「Project ‘Mirrors’ 稲垣智子個展:はざまをひらく」(2013年、京都芸術センター)、「egØ-『主体』を問い直す-」展(2014年、punto、京都)。

ねほりはほり
上演作品 山本和馬「愛してしまうたびに。」・佐藤有華「Cardinal LineⅡ−1」
日程5月30日(土) 17:00 31日(日) 14:00
※2作品連続上演、30日(土)は終演後にトークセッションあり
場所 2階 音楽室 google map
料金 1,700円(当日券 +300円)
上演時間 30分+30分
予約
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