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三田村啓示→増田美佳 インタビュー (1回目) 5月1日(水)京都 出町柳周辺
増田美佳さんと三田村啓示さん、お二人の初対面であり、インタビュー初回。
お互い緊張した面持ちで始まった対話は、演劇を主なフィールドとして活動している三田村さんが
「ダンス」や「即興」を増田さんに問うにつれ、徐々にほぐれ、深まってゆきました。

 
- 自己表現と、自己表現ではないもの -
三田村:
まずは素朴な質問ですが、なぜダンス作品をつくるんですか?
増 田:
まず日常から少しずらしたところで人の姿を見たい、ということがあります。社会に登録され縁取られた認識でその人を見るのではなく、生きている状態の人、というと妙な言葉かもしれないですけれど、もっとその人そのものが見たいということがあって。そういう人の姿を見るための時間をしつらえたいというのが動機といえるものですかね。
三田村:
例えば、この人は何歳で、どこ生まれで、何々の仕事をしていて年収が幾らとか、そういうものを取っ払った、ありのままの生命とでも言うべきものを抽出したい、ということなんでしょうか。ずっとそういうモチベーションで創作していらっしゃるんですか?
増 田:
自分で作るという機会はまだ少なくて、人の作品に出演することが多かったんです。ある状況に接したときに「わたし」というものはあらわになるものと考えると、日常とは異なる場所に晒されようとするのは「わたし」という状態に揺さぶりをかけたいという欲望があるからだと思います。
三田村:
今回、どういう作品を作ろうとしていますか?
増 田:
「式日」というタイトルをつけようと思っています。具体的にやろうとしていることはいくつかありますが、まず、生まれてきて死ぬっていうことを考えています。自分がここにいる「今」っていう状態は、すでに始まっていて終わりがある、その間の地点。そういうことを浮かび上がらせる形式として、儀式の所作や様式というものが気になっているところです。
三田村:
ダンスの面白さはどういうところにあると思いますか?
増 田:
興味深く感じるのは、自己表現をしているわけではないのだけど、意思はあって、でも動かされているような体を見るときです。イタコみたいに何かが乗り移り動かされる状態ではなくて、本人の意思はあるけれど、そこで動き出す時に自分を手放していると見える状態。
三田村:
ではダンスにおいて、自己表現以外にはどういう状態があるんでしょう?
増 田:
踊るときに受動的に動くという言葉を使ったりします。100パーセント受動的だと、動かないということになってしまうけど。受けて動くということをすごく単純に言うと、たとえば、目の前で行われた動きと同じ様に動いてみたり、聞こえた音に反応するとか。
三田村:
それは自己表現ではないと?
増 田:
自分を出来る限り知覚に徹するものとして扱うという感じです。
三田村:
僕はダンス作品をそこまで頻繁に観てはいないのですが、おしなべて自己表現に見える面が強いという印象があります。勿論それが悪いということではありませんが。
増 田:
それは私も自分で言いながら思うところではあって。客観視というのも、そういうイメージの主観でしかなく、結局戻ってくるんじゃないかと思うんです、いくら遠ざかろうとしても。
三田村:
自己表現に?
増 田:
自己表現というか、「わたし」っていうものが起点になっているということに。当然のことなんですけど。結局はそこに安住しないということしかないのかも知れないです。揺れているというか、ブレている状態を維持すること。
三田村:
自己表現と自己表現を越えた何かの間を揺れ続けるということ?
増 田:
自分と自分じゃないものかな。
三田村:
自分じゃないもの、って何なのでしょう。
増 田:
自分にはしっくりこないものってあるじゃないですか、もしかしたら、そういうものに触れに行ってみないとダメってことかもしれない。
三田村:
例えば?
増 田:
他人の体。
 
- 踊っている時の状態 -
三田村:
増田さんの考えを、パフォーマーにどうやって意識してもらいますか?
増 田:
まずそれぞれのことを知りたいし、出演者の3人と共有できる下地をつくる稽古をしていくつもりです。どういうことを投げかけることが必要で、何を制御しないことが必要なのかを見つけたいです。
三田村:
踊っている時って、何を考えているんですか?
増 田:
人によると思いますが、私は踊るとき即興であることが多いので、考えてというよりは、反応していくという感じがします。受けたものを自分の中で咀嚼する時間を与えないで、瞬時に選びとった形から形に繋がっていく。そういう踊り方を、常にできていると言い切れないですが、いつもしたいと思っています。もちろんそのなかで考えることもあります。たとえば、足があんまり動いていないなって気付いて足を動かすということもある。でも足あんまり動いてないな、まで考えてないかも知れないです。「あ、そや足」って。
三田村:
考えるっていうよりは…
増 田:
単語が浮かぶみたいな感じですかね。
三田村:
ひらめきとか、そういう次元の話ですよね。
増 田:
そうですね。無になってるみたいなことはないですね。
三田村:
何をやっているか全然覚えていなかったとか、トランス状態のような瞬間はあるんでしょうか?
増 田:
私は全然ないです。
三田村:
ダンスって、何をもって「上手い」っていうんでしょうか。上手いダンスって何なのでしょう?
増 田:
…即興で踊ってて上手いなと思う人は、知覚の範囲が広い人ですね。たとえば、小さい物音やかすかな変化も拾える、反応することが動きになっていく。あと、その時の状況への反応が、場に対して批評的であればあるほど面白いと思います。
三田村:
「場に対して批評的」というのは?
増 田:
簡単に言うと、空気がなだらかな感じで続いているのを、ぱっと違うアイデアを投げ入れて、場が別のリズムに乗れるというか。それによって広がりが生まれたり、そこからまた別の展開が起こってくる要素を提供できるということです。
三田村:
いい感じの転調のきっかけを作れる、と。
増 田:
場が自由になることに献身的であって、それが自己犠牲でなく、むしろそのことによって多様でいきいきして見えてくる。そういうことが出来る人は上手いと思います。技巧というより意識の置きどころの問題です。
 
- ダンスを楽しむためには? -
三田村:
面白いダンスと、面白くないダンスの違いはどこにあるんでしょうか。
増 田:
面白くないのは、与えられた振りをこなしているようにしか見えないダンス。踊っている人はそうじゃないのかもしれないけど、そう見えるなものはおもしろくないと思いますね。あと意図が観客にはっきりと伝わってこないもの。
三田村:
演劇もそれはあると思います。下品な言い方をしたら、自慰行為的なものというか。
増 田:
見ている視線がある、観客がその場を共有していることをどう捉えるか。そのことに対する視点をもたなければ見ている人は置き去りになるし、そういえばなぜこれを見てるのだろうと思い、ついていけなくなってしまいます。
三田村:
演劇で例えると、お話についていけないっていうことが、「なんだかよくわからない」となってしまう作品の理由の一つだと思うんですけど、ダンス作品でついていけないっていうのはどういう感触なんでしょう。
増 田:
さっき言ったことと重複しますが、為されていることのリアリティとその根拠が観客席まで伝わってこない場合だと思います。でも、なんだかわからないけど問答無用の説得力を感じるということもダンスにはあります。観客として面白いなって思う時の自分の感じって、身体が自然とちょっと動いてしまうみたいなことがあるんです。観客席にそういうことが起こるってことは、たぶん観客がいるってことを意識していて、かつその意識が観客席に届いているって思うんですよ、
三田村:
ダンスを楽しむためには、見る側にリテラシーみたいなものが必要なのでしょうか。ダンスがわからないという人に対して、ダンスの見方みたいなものをレクチャーするとしたら、どうしますか?
増 田:
ダンスの何を見ているのかについてダンスをしている人と話すと、「身体を見に行く」っていう答えをよく聞くんですよね。でも、たとえば自分の親とか、普段ダンスを見ない人は、やっぱり違う。パンフレットにあるタイトルと内容を見て、「今からこういうことをするんだ」って思って観る。そこでやっている動きが何を表わしているのかってことを読みとりたい、でもそういう意識でいると、「わからない」ってことになるよなって思うんです。 体を見るってマニアックなことなんでしょうか…演劇ではまた違いますか?
三田村:
様々な人がいるので一概には言えませんが、おそらく物語を見に来ている人が多いとは思います。
増 田:
人にはもこういうありようもあるんだ、という素朴な発見をしてもらえたらいいなとは思うんですよね。
三田村:
ダンスを楽しむには、身体っていうものに注目する意識が必要になる、ということでしょうか。ちなみにダンス作品を見に来る人ってどういう人が多いんですか?
増 田:
そうですね、ダンスをやっている人、舞台に関わっている人が多いと思います。誰に向けてなぜやっているのかわからないから見に来づらいのでしょうか。
三田村:
誰に向けて、何のためにやっているのか。僕も、ダンスが単なる自己表現以上でも以下でもないんじゃないかっていうことを考えてしまう理由は、そこにあるんですよね。例えば、非常にベタな話ですけど、俳優なら評価されてテレビに出たいとか売れたいとかありますよね。ダンサーの方はどういうモチベーションがあるんでしょう。
増 田:
それは人によって違うところですよね。売れたいというか、ダンサーとしてやっていきたいという方もあるだろうし。踊るという体感が担保になっている部分、解放や自分の喜びのためにということもあると思います。
三田村:
増田さんは、誰に向けて踊っているんですか?
増 田:
踊っている時その場を共有している人としか言えないです。
 
- 「即興」で踊ることへの関心 -
三田村:
ダンス以外のものを見て、作品や自身のダンスにフィードバックすることはありますか。
増 田:
読んだり観たりする中で、自分の考えていることに響くものを探してしまっていると思います。
三田村:
最近出会った他ジャンルの作品で、印象に残っているものはありますか?
増 田:
マリオ・ジャコメッリという写真家の作品ですね。主に白黒の写真を撮る人で、男性の修道士が雪のなかで踊っている写真があるんですけど、今回の作品を考えている時に見返しました。
三田村:
即興に惹かれる理由は何なんですか?
増 田:

自分が舞台に立つことを止めない理由をよく考えるんですが、その理由に「今」と「わたし」ってことがあります。

幼稚園ぐらいの時に、眠れなくて薄暗い部屋でぼーっとタンスの木目をながめていたら、自分が寝ている地点から視点がずっと引いていって、すると宇宙に出て地球が浮いてます。把握できない広さの外がある。誰の魂胆でこんなことになっているんだろう。その時、あれって思って。もしかしたら今、自分で考えてるつもりだけど、これはもう全部決まってる丸い世界の物語なんじゃないかと。じゃあ、今、私って思ってる、「わたし」って何、この「今」って何?ってなって。それからも時々釘付けのように同じ状態になることがありました。捉えようのないこの不安は意識に置かなくてもずっとあり、それをほうっておけませんでした。どうしてもなぜ「今」あるのか分からず捉えられない。でも「今」に触りたい、実感したい。それが即興にこだわっている理由だと思います。それで踊っていますけど、あらかじめ決まった振りをうまく踊れません。
三田村:
振りつけられたものには、あまり興味が無い?
増 田:
ずっとやだったんです。それよりも、「今」っていう体感が強いものが即興だった。
三田村:
そうですね。即興は本当のライブ、一発勝負。
増 田:
もちろん、振付のダンスでも、もう一度それを踊る時に「今」、自分が踊るってことになるんだけど…
三田村:
よりその「今」っていうのを強く意識できるのが即興だった、ということですね。
 
- インタビューを終えて -
増 田:
自分の喋ったことが文字化して帰ってくるという体験は思えば始めてのことです。質問されて考えている状況、言葉を手探りしている跡がありありと見え、日本語として妙だったり、言いそこねていたり、それなりに言えているようだったりですが、まわりくどくしている言葉を省き、足りない言葉を足したくなりました。読みながら既にそれをしていました。
簡潔にものを言うということを念頭に置いて次回に挑もうと思います。
三田村:
このような形で初対面の、しかもダンサーの方にインタビューをすることは始めてだったので、どうなるのか楽しみな反面不安もありましたが、増田さんはとても丁寧に、自分の中からことばを紡ぎだしてくれたので、とても密度の濃い時間になったと思います。ダンスという大枠についてや、作品創作の源泉についても聞けたのは今後のためにも収穫でした。次回からは実際の作品創作の過程を拝見する事となります。共同の製作者ではなく、第三者のインタビュアーという立場において、僕がこの作品にどう接することが出来るのか。良い影響を及ぼしたいという気持ちもあるのですが、あくまでこれは増田さんの作品です。深入りしすぎず、フラットな立場でシンプルにこの作品を眺めていけたらと思います。

PROGRAM4 ねほりはほり
7月6日(土) 15:00開演 (高木作品のみ上演+トーク)
7月6日(土) 17:15開演 (西岡作品のみ上演+トーク)
7月6日(土) 19:45開演 (増田作品のみ上演+トーク)
上演時間 各回60分 (作品上演 約30分+トーク 30分) | 上演場所 音楽室
定員
各回60名 | 料金 各回500円 (当日+300円)

7月7日(日) 15:00開演 (ねほりはほり3本立て) ※トークなし
上演時間 約90分 | 上演場所 音楽室 | 定員 60名 | 料金 1,500円 (当日+300円)
webサイト予約フォーム || シバイエンジン


タイトル ||
「式日」

振付 || 増田美佳  出演 || 石川喜一 | 富松悠 | 山崎恭子
インタビュアー || 三田村啓示 (空の驛舎・C.T.T.大阪事務局、舞台芸術雑誌「ニューとまる。」編集部)

上演時間。日常とは異なる場をしつらえ、人々の立ち会いのもと人が何かする。それは一体何か。今のための儀式 という言葉がうかんだ。即興であることにずっとこだわりがある。それはこの今への欲望があるからだ。今 と打ったこのときの今は、打ったそばからすり抜けて文字のかたちだけ残る。常に接していて流れていて実感がない。流れを塞き止めることはできないが、せめて起こっていることの只中に、今に触れる時間のために。